首先说明这个电影不是狭义上的Happy Ending。
因为之前已经知道影片是从三个角度进行叙事,拿下了酷儿金棕榈也就是代表了故事会着墨于LGTBQ的方面。
三个角度的叙事并没有像《金刚川》那么机械生硬的三个主观视角出发,而是各有穿插。可以说是从妈妈、老师、校长这三个孩子以外的角度来对同一件事进行描写,但这三个视角也不是单一的把一件事按照同步的时间线去展现,通过一些镜头语言甚至声音将故事完整的展示给观众,是枝裕和自己当剪辑算是完成了这个任务,但有些片段之后跟小伙伴的交流中还是“捋一捋”才能拼凑出完整的时间线。
也因为这样的叙事方式,所以在影片的前三分之二都带有很强的悬疑感,虽然稍显冗长但因为各有穿插,在事件全貌逐渐明朗的时候观众自己会不由自主的“哦~~~”,甚至有一种破案的快感。当悬疑部分逐渐清晰,故事来到了酷儿主题的部分,因为提前知道影片有所涉及,前半段都在寻找酷儿元素,但除了两个男孩子这个明显元素之外没有见到其他蛛丝马迹。甚至一度以为酷儿主题是展现为更为宽泛的诸如霸凌、孤立等的行为,没想到后续给到的是比《亲密》更为直给的同性感情。两个同为单亲家庭的少年,其中一个虽然看起来更小更可爱(是真的很可爱 )但更为成熟,成熟懂事到让人心疼,甚至感觉早已完成了身份认同。另一个则是更为现实的处于懵懂期、挣扎期,通过剪头发等行为来否定自己的感情。描述两个人感情的段落算是全篇比较阳光的部分,加上坂本龙一的配乐真的有点甜。火车车厢里完成关系揭示的段落堪称全片名场面,用小伙伴的话说已经拍出了性张力,当我以为难道东亚电影要出现让孩子展现超越友情表达行为的时候,影片用了一个很巧妙的方式来完成了必要的表达。
回到影片名字《怪物》,其实这更有点像麦格芬,故事里没有明确什么是怪物,但其实怪物无处不在 。是谣言还是偏见?是报复父亲放火的小孩还是意外压死孙女让丈夫顶罪的校长?是霸凌同学的学生还是息事宁人的老师?是社会长久以来对于LGTBQ的歧视还是我们可能都有经历过的对“娘娘腔”的嘲笑?怪物实际无处不在。是枝裕和再一次把社会性讨论加入自己的电影中,而这一次由坂元裕二操刀的剧本则比导演自己之前的作品所探讨的主题更为复杂。
如果要说缺点的话,还是回到多角度叙事,在敲这片小作文的时候真的有在努力回想剧情以及捋时间线,还有会思考诸如“我喜欢了一个女孩子”“我刚才是撒谎的”这些更为直接段落的必要性 ,总的来说电影没法让人一次性觉得这个故事很顺,所以正式公映还会再去看一遍。
开头就点明了电影不是狭义的happy ending,两个孩子从火车出来后看到眼前的铁路桥畅通无阻,而现实中的铁路桥是有一道铁闸的,也就意味着两个人是真的“投胎”了。本来抱着对导演以往作品的了解,不会真的搞死两个小孩 。看到狭小的通道有亮光的时候以为真的如镜头语言可以有一个happy ending的时候,忘了这次编剧不是导演自己啊,还是用了隐晦的、温暖的方式kill them softly。其实对于两个涉世未深的孩子来说,也未尝不是happy ending。(结尾也是散场后小伙伴挑明了才意识到,当场就想刀了编剧 )
写于应该算中国首映的香港PREMIERE ELEMENTS影院优先场之后因为后劲太大睡不着的深夜。
--------端午节二刷后又发现一些新细节--------
1. 影片第一个镜头就是刚放完火的星川
2.麦野在阳台跟妈妈讨论人脑猪脑时,妈妈问是谁的观点,麦野停顿了一下才说是保利老师,这里就是撒谎的表现
3., 麦野听到可以和星川一起去乐器室的时候,眼補一下就温柔了
4. 第一段妈妈视角的叙事中,麦野在车上跟妈妈说的台词(字幕)是“我。。。。和爸爸一样。。。而在第三段孩子视角的叙事中,麦野的台词是“我不能和爸爸一样”
本文翻译为人工智能翻译(OpenAI),如有错误请谅解。
MC MC戻ってきたばかりの監督からご挨拶をお願いいたします。
请刚回来的导演向大家问好。
是枝監督(以下、監督) 是枝导演(以下简称导演)2時間くらい前に羽田についたばかりなんですけれども、この作品にとって本当に素晴らしい評価をいただいたなと思っております。無事にこの脚本賞の盾を、僕が運んだわけではありませんが、坂元さんにお渡しできすることができて、ちょっとホッとしています。今日は有難うございます。遅い時間にすみません。
我大约两个小时前刚到羽田机场,对于这部作品获得如此高度评价,我真的感到非常开心。虽然不是我亲自运送的,但我很庆幸能够将这个剧本奖的奖杯交给坂元先生。非常感谢今天的机会,时间这么晚了我表示抱歉。
MC MC一足先にご帰国されていましたが、この度見事受賞されました坂元裕二さんよりご挨拶をお願いします。
虽然您已经先一步回国了,但是我想请坂元裕二先生代表我们向您致以最诚挚的问候和祝贺。
坂元裕二(以下、坂元)こんばんは、脚本家の坂元裕二です。本日はお越し下さり有難うございます。
晚上好,我是剧本家坂元裕二。非常感谢您今天的光临
こういう場に出るのは初めてですので、とても緊張していますが、どうぞ宜しくお願い致します。
这是我第一次参加这样的场合,所以我非常紧张,但还请多多关照。
質問者 提问者今回はおめでとうございます。受賞されてトロフィーを今受け取られたばかりですが、
恭喜您这次的获奖!您刚刚领取了奖杯,真是太棒了!
そのトロフィーの重み、実感みたいなものはいかがですか?
那个奖杯的重量,你有没有真切地感受到它的存在?
坂元実感は正直あまりありません。まだ受賞を初めて聞いた時に寝ていたものですから、第一報を聞いた瞬間、まず初めにまだ夢を見ているのかなと思いました。その後もまだ続いているようで、今も夢の中にいるような、そんな思いと、ただこの重み自体がやはりこの作品の責任感だと感じますので、そこは私自身、手にも背中にも乗っかったとても大きな責任だと感じております。
实感实在不多。当我第一次听到获奖的消息时还在睡觉,一开始我甚至以为自己还在做梦。之后,这个感觉仍在持续,现在仍然感觉自己像是在梦中,同时也感受到这份荣誉所带来的责任感。对我个人来说,这是一个非常重大的责任,无论是在手上还是在背上都感受到了。
質問者 提问者今回世界的な評価を受けたということで、今後映画の脚本に対する向き合い方ですとか、考え方のようなものに変化は出てきそうな予感というものは自分の中にありますでしょうか?
由于这次获得了全球范围的认可,您是否感到自己对电影剧本的处理方式以及思考方式等方面可能会发生变化的预感呢?
坂元最近、映画の脚本を書くようになりまして、ほぼ2本目のようなものなんですが、まだやはり監督のお力を借りながら、プロデューサーのお力を借りながら、ゆっくりと進んでいるところですから、やはり今回含めて周りの人のお力によるものだと考えております。
最近开始写电影剧本,虽然算是第二部作品了,但还是需要导演和制片人的帮助,所以进展比较慢,我认为这次以及之前的作品都是得益于周围人的支持。
質問者 提问者先ほど一報を聞いた時に寝ていらっしゃったということですが、どなたからどのような手段、どういう状況で一報が入ったか教えてください。
听说您在刚才接到通报时正在休息,能否告诉我是谁以及通过什么方式,在什么情况下向您通报的呢?
坂元朝方というか、深夜4時頃だったものですから、寝ておりました。着信はあったようなのですが、気付かずにそのまま寝ていまして、そのうちに、またそのニュースをご覧になった方からショートメールをいただいて、それで初めて音が鳴ったんですね。その音で気付いて、見たところ、プロデューサーや監督から、受賞しましたというお話を聞きまして、何と言いますか私はご覧のようにあまり感情の起伏がないものですから、「うれしい」とか「やったー」という気持ちよりは、何か「ズシン」という思いが訪れて、水を一杯飲みました。それが最初の行動でしたね。
与其说是什么情况嘛,其实大概是凌晨4点左右,我正在睡觉。虽然有来电,但我没有注意到,继续睡了下去。后来,我收到了一条短信,是从另一个看到那则新闻的人那里发来的。这才是我第一次听到声音。我被那声音吵醒后,看到是制片人和导演给我发来的消息,说我获奖了。我要说,我并不像你们看到的那样情绪起伏很大,不会像“开心”或者“耶!”那样的心情,而是有一种“咚”的感觉涌上心头,我喝了一杯水。这是我最开始的反应。
質問者 提问者 以前、完成披露試写会の舞台挨拶の際に、この脚本は子供の頃の記憶・経験を思い出しながら書いたとおっしゃっていました。また、受賞の後に是枝監督が紹介されたコメントの中では、たった一人の孤独な人のために書いたとおっしゃっていました。差し支えない範囲で、この作品の元になったという経験がどのようなものだったのか、また、たった一人の孤独な人という、その人に伝えたい言葉が今ありましたら教えてください。
在之前的披露试写会的舞台致辞中,您曾提到这个剧本是在回忆童年的记忆和经历的同时写成的。而在获奖后,导演是枝先生在介绍中说,这是为了一个孤独的人而写的。如果不介意的话,请告诉我们一下,这个作品的灵感来源是什么样的经历,以及如果有一句话想要传达给那个孤独的人,您现在会说什么呢?
坂元監督にお送りした、「たった一人の~」というコメントに関しては、慌てて書いたものでしたから、文章が下手だったんですが、きっとどこかにいるであろう孤独に過ごしている誰か、それは特別な誰かを指しているわけではなく、また多くの沢山の人に届けるという気持ちではなく、誰かこの映画を受け止めてくれる、そんな人がいると信じて、その人のことを頭の中で思い描きながら常に書いていました。
关于我给监督的那条“只有一个人”的评论,我匆忙写下的,所以文笔不太好,但我相信总会有那么一个人,他们或许在某个地方独自度过,这并不特指某个特殊的人,也不是为了让更多人看到,而是相信会有人接纳这部电影,所以我一直在脑海中想象着那个人,写下这些话 子供の頃に関しては、その時に話していた通りで、仲良かった友達のことや、何人かの僕が小学校時代から中学にかけて出会った友人や出来事、そんなことを思い返しながら書きました。 关于小时候,就像当时所说的那样,我写下了与我关系亲密的朋友们的事情,以及我在小学到中学期间遇到的一些朋友和事件,回想起了这些事情。
質問者 提问者感情の起伏があまりないと今おっしゃっていましたが、賞というのはもらうと嬉しいものでしょうか?
您刚才提到情感起伏不大,但是获得奖励会让人感到开心吗?
坂元周りの方から「おめでとう」と言われて初めてうれしくなります。 当别人从周围赞美你并说“恭喜”时,你才会感到开心 沢山の方から、まずは監督から、プロデューサーから「おめでとう」と、勿論チームの一人ですので、みんなでもらった「脚本賞」だと思っていますから、その時点で私が身内からお祝いされるのも不思議なことではありますが、沢山の人からその後も「おめでとう」という言葉をいただきました。それが、やはりうれしかったです。一番うれしかったのは、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督から「脚本賞受賞おめでとうございます」というメッセージが届きまして、タクシーの中にいたんですが、涙が出ました。うれしかったです。
从很多人那里,首先是导演,制片人,他们都对我说了"恭喜",当然作为团队的一员,我也认为这是大家一起得到的"剧本奖",所以在那个时刻,我被亲朋好友祝贺也是一件奇妙的事情,之后还收到了很多人的"恭喜"。这些话,确实让我很开心。最让我开心的是,导演约翰·卡梅隆·米切尔发来了一条消息,祝贺我获得"剧本奖",当时我正在出租车里,眼泪流了出来。真的很开心。
質問者 提问者是枝監督はカンヌで沢山もらっていらっしゃると思いますが、賞をもらうという気持ちはどのようなものでしょうか?
我认为是枝导演在戛纳电影节上收获了很多奖项,那获奖的心情是怎样的呢?
監督 监督勿論、うれしいです。華やかな場所が好きなわけでは勿論なく、僕も周りから感情があまり見えないと言われがちなんですが、内側では色々感情の起伏があるタイプなんですが(笑)、特に自分が褒められると、本当かな?と疑問が湧きますけれども、自分の映画に関わってくれた役者さんとかスタッフが褒められるのは、うれしいですね。今回は会場にいて、何かとても幸せな気持ちになりました。
无论如何,我很高兴。并不是说我喜欢热闹的地方,而且我也常常被人说我看不出太多情感,但其实我内心起伏多变(笑),特别是当别人夸奖我时,我会怀疑这是真的吗?但是,当别人夸奖参与我的电影的演员或工作人员时,我感到很高兴。这次在场的时候,我感到非常幸福
質問者 提问者坂元さんに質問です。受賞しそうだな、するんじゃないかなという予感はなかったんでしょうか?
我有一个问题要问坂元先生。您没有预感到自己可能会获奖吗?
坂元まったく考えてもいませんでした。カンヌに呼んでいただけたこと自体が私にとって何より嬉しいことでしたし、それ以上のことは考えていませんでした。勿論私も『怪物』のチームの一人として、作品を観てとても好きになれた作品でしたので、評価を受けると嬉しいなという気持ちでした。本音で、自分のことは全く考えておりませんでした。
我完全没有考虑过。被邀请参加戛纳电影节对我来说已经是最开心的事情了,我没有想过更多的事情。当然,作为《怪物》团队的一员,我非常喜欢这部作品,所以能得到评价让我感到高兴。说实话,我完全没有考虑过自己
質問者 提问者脚本のどんなところを評価されたと考えていますか?
您认为脚本的哪些方面受到了评价?
坂元勿論、審査される方が脚本を読んでくださっているわけではないので、出来上がった作品から脚本を評価していただいたと思うのですが、それは作品のすばらしさ、そして脚本に関しては、どうでしょう、自分ではなかなか評価しづらいんですが、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督は「人の命を救う映画になっている」とおっしゃってくださったので、もしそれが誰かの心にそうあるなら、こんなに嬉しいことはないなと思っています。
无论如何,我认为并不是有人审查了剧本后才评价了成品,而是从成品中评价了剧本的优秀之处。关于作品的精彩和剧本本身,我自己很难评价,但导演约翰·卡梅隆·米切尔先生说这是一部能够拯救人命的电影,如果这样的评价能触动某人的心灵,我觉得再开心不过了
質問者 提问者子供と親と教師という3つの視点が巧みに表現されていると思ったんですが、その辺はどういった意識で書かれたのかを教えてください。
我认为这本书巧妙地表达了孩子、父母和教师这三个视角,您能告诉我它是以什么样的意识来写的吗?
坂元3つの段階をふむのは、私が以前経験したことなのですが、車を運転しておりまして、赤信号で待っていました。その時前にトラックが停まっていて、青になったんですが、そのトラックがなかなか動きださなくて、しばらく待っても動かないものですから、私は前の車がよそ見しているのかなと思って「プップッ」とクラクションを鳴らしたんですね。そのトラックはそれでも動かなかった。
经历过三个阶段,这是我以前的经历,当时我正在开车,等待红灯。那时前面有一辆卡车停在那里,绿灯亮了,但是那辆卡车一直没有动,我等了一会儿也没有动,所以我以为前面的车在看其他东西,就按了一下喇叭。但是那辆卡车还是没有动
どうしたんだろうと思っていると、ようやく動き出した後に、横断歩道に車いすの方がいらしたんです。そのトラックは車いすの方が渡り切るのを待っていたんですが、トラックの後ろにいた私にはそれが見えなかったんですね。それ以来、自分がクラクションを鳴らしてしまったことを後悔し続けておりまして、このように世の中には普段生活していて見えないことがあり、私たち、私たちと言っていいのか、まず私自身、自分が被害者だと思うことにはとても敏感ですが、自分が加害者だと気付くことはとても難しい。それをどうすれば加害者が、被害者に対してしていること、気付くこと、それができるだろうか、そのことを10年余り常に考え続けてきて、その一つの描き方として、この方法、この描き方を選びました。
我一直在想发生了什么事,终于开始动起来后,横过马路的是一个坐在轮椅上的人。那辆卡车等着轮椅上的人过完马路,但是我站在卡车后面看不见。从那以后,我一直后悔按响了喇叭,因为在日常生活中有些事情我们看不见,我们,或者说首先是我自己,对自己是受害者的事情非常敏感,但是很难意识到自己是加害者。我一直思考着如何让加害者意识到他们对受害者所做的事情,如何让他们意识到这一点,我已经考虑了十多年了,选择了这种方式来描述这个问题
質問者 提问者是枝監督に。坂元さんの脚本の優れているところ、どのように評価されているのかを教えてください。 对于是枝导演来说,能否告诉我坂元先生的剧本有哪些优点,以及它们受到了怎样的评价?
監督 监督
ぼく個人が、でいいですか?
说我个人的观点可以吗?
質問者 提问者
はい。 好的
監督 监督受賞後のカンヌの囲みで、坂元さんの脚本のどこが評価されたと思いますか?という記者の質問が出て、
在戛纳电影节获奖后的采访中,有记者问到坂元先生的剧本被评价的哪些方面?
審査員の人たちと話す機会があれば聞いてみたいなと思っていたのですが、ちょっと今回はそういう集まりがなくて、いきなり花火があがってお祭りになっちゃったものですから、ちゃんと聞けていないんですよ。それがちょっと残念なんですけれども、僕自身は最初にプロットをいただいた時から、一体何が起きているのかわからない、わからないのに読むのが止められない。どこまでいってもわからない。映画が半分過ぎても多分まだわからないということが、あぁこんな書き方があるんだなと、自分の中にはない物語の語り方でしたし、読み進めていくうちに、読んでいた自分が作品によって批評されていく、自分がその今の坂元さんのお話でいうと、クラクションを鳴らす側に否応なくなってしまうという、そのある種の居心地の悪さというんですかね、良い意味で。それが最後まで持続するということが、とても面白かったです。エンターテインメントとしても本当に面白かったんですね。それが僕は一番チャレンジしがいのある脚本だなと思ったところの一つです。沢山ありますけれども、それが一つですね。
如果有机会和评审们交谈,我本来想问问他们的想法,但这次没有这样的机会,突然间烟花绽放,就变成了一个庆典,所以没能好好询问。这有点遗憾,但从一开始收到剧本时,我就不知道到底发生了什么,不知道却停不下来地读下去。无论读到哪里,都不知道。即使电影已经过了一半,可能还是不知道,这种叙述方式在我内心中是全新的,随着阅读的进行,我发现自己被作品所批评,我不由自主地成为了现在坂元先生故事中按喇叭的那一方,这种不舒服的感觉,以一种好的方式存在着。这种感觉一直持续到最后,非常有趣。作为娱乐作品,真的非常有趣。这是我认为最具挑战性的剧本之一。还有很多,但这是其中之一
質問者 提问者坂元さんにお伺いします。先ほど映画の脚本は2本目とおっしゃっていましたが、そもそものお話として映画の仕事をやりたいということが、脚本を書かれるルートにあったという風に伺っております。例えば、フジテレビヤングシナリオ大賞に応募する前にディレクターズカンパニーの方に長い脚本を出して、それと同時に短くしたものをフジテレビに送ったらフジテレビの方で通ってしまった。でも、どうしても映画をやりたい、ということで、ご自身で監督作をやったこともある。そんな過去がありながら、近年だとドラマというものは結論が出ていないから面白い、映画は2時間で結論が出るから面白くないというような発言をされていたのもちょっと聞いたことがあります。もともとやりたかった映画の世界で、脚本という道で賞をとったということの喜びについて、どう思われていますか?
我想请教坂元先生。刚才您提到您已经写了第二部电影剧本,但我想了解一下,最初您是怎么进入电影行业并开始写剧本的。例如,在参加富士电视台青年编剧大奖之前,您曾向导演公司提交了一部长篇剧本,并同时向富士电视台提交了一份缩短版,结果富士电视台通过了。但是,由于您非常想做电影,所以也曾自己执导过作品。我听说您曾经说过,近年来,电视剧之所以有趣,是因为没有结论,而电影只需要两个小时就能有结论,所以不那么有趣。作为一名在电影界本来就想做电影的人,您对通过剧本这条道路获得奖项的喜悦有何感想?
坂元映画がつまらないと思ったことは全くありませんし、一人の映画ファンとして映画が大好きです。自分が高校生の頃に多くのこの世界にいる人達がそうであるように、映画をたくさん浴びるように見て、この映画の世界で映画をつくる仕事をしてみたい、と10代から20代前半のときはずっと思っていました。
我从来没有觉得电影无聊,作为一个电影迷,我非常喜欢电影。就像许多人在我还是高中生的时候一样,我一直希望能够像他们一样沉浸在电影的世界中,从事电影制作的工作。这个想法一直伴随着我从十几岁到二十几岁的年纪
1本映画をつくったのですが、その時に全く自分が監督という仕事に向いていないということが分かりまして、それ以来辞めようと思って25年くらいですかね、もう少しで30年くらい経ちます。30年も経つともしかしたら今ならできるんじゃないかと思ったりはしていたんですが、今回の是枝さんの仕事をみて、やっぱり自分にはこれはできない、無理だとはっきり分かりましたので、本当に映画監督ってすごい仕事だなと思いました。すみません、質問の答えになってましたか?
我制作了这部电影,当时意识到自己完全不适合导演这个工作,从那时起我就考虑辞职了,大概已经有25年了,差不多快30年了。过了30年,我有时候也会想,也许现在我能做到了吧,但是看了是枝先生的工作之后,我明确地意识到这对我来说是不可能的,真的是太难了,我觉得电影导演真是一份了不起的工作。对不起,我的回答是否符合您的问题?
質問者 提问者映画監督が凄いということは分かりましたけれども、脚本でカンヌの頂点に立った、もともとやりたかった映画で賞を取れたということの達成感、そういうものはあるんじゃないですか?
我明白电影导演很厉害,但是在剧本上能够在戛纳电影节上获奖,实现了自己一直想做的电影,难道没有一种成就感吗?
坂元そうですね。私30年前にカンヌ映画祭に遊びに、観光で行ったことがありまして。それは仕事でもなんでもなく、ユーロスペースという会社の堀越謙三さんや、亡くなられた吉武美知子さんにパスを取っていただきまして、吉武さんに案内されながらカンヌで映画をたくさん観ました。その時に、いつかここで自分の作品を上映できたらどんなに幸せだろうか、そんなことを毎晩考えていました。遠巻きにレッドカーペットを見ながら。それから30年経って、賞を獲ったということも勿論嬉しかったのですが、上映できたこと、それが30年来の願いで、願いというか忘れていた願いが蘇ってきて、ああここにあったんだという気持ちになりました。
嗯,是的。我30年前去过戛纳电影节玩,当时是作为旅游目的去的。那并不是工作,而是得到了Eurospace公司的堀越謙三先生和已故的吉武美知子女士的通行证,她带着我在戛纳观看了很多电影。那时候,我每天晚上都在想,如果有一天我能在这里展示自己的作品,那该有多幸福啊。就这样远远地看着红地毯。然后30年过去了,当然获得奖项也让我非常高兴,但更让我高兴的是能够展示我的作品,这是我30年来的愿望,或者说是我已经忘记的愿望重新浮现了,感觉啊,啊原来它一直在这里
質問者 提问者ドラマの世界でもなかなか難しい時期もあったかと思うんですよね。テレビから離れた時期もあった。ゲームの脚本を書かれたこともあった。テレビドラマに向き合うってこと、脚本家っていう職業として向き合うことが難しい時期もあったと、著書の中でも書かれていますけれども、今ご自身の脚本家の人生を振り返ってみて、やっぱり幸せの頂点というところなんでしょうか?
我觉得在电视剧的世界里,也有过一些困难的时期吧。也有过离开电视的时候。还曾经写过游戏剧本。在面对电视剧这个职业作为编剧时,也有过困难的时期,这也在您的著作中有所提及。但是现在回顾您自己作为编剧的人生,您认为最高点就是幸福吗?
坂元全く頂点とは思っておりません。なかなか日々とにかく、(記者の)皆さんも同じようにパソコンの白い紙に向かって書かれていらっしゃるかと思いますが、私も日々ただただ締め切りに追われ、文字を埋めていくということをコツコツ毎日1日中やるしか、それでしか、ものが出来上がらないので、そこになかなか達成感というものが生まれるということはなく、ただただ文字を書き貫いていく、これが自分の人生だと、振り返れば思っていますので、そこに達成感というものが、この仕事をしているとなかなかそう簡単に手に入るものじゃないのではないかなと。ただ、お客様から観てました、時に救われましたという言葉をいただけると、ちょっとそのコツコツやっていた日々を思うと、無駄ではなかったなとそんなことを思うぐらいです。
我并不认为自己是顶尖的。每天都在忙碌,我想记者们也是一样,坐在电脑前面面对着白纸写作。我也是每天被截稿压迫着,只能一天到晚埋头填字,只有这样才能完成工作。所以,我并没有什么成就感,只是一直写字,这就是我的人生。回过头来看,我觉得在这个工作中很难获得成就感。但是,当客户告诉我他们从我的作品中得到了救赎时,我会稍微想一下那些辛勤努力的日子并不是徒劳无功
質問者 提问者子供のセクシャルアイデンティティについて、かなり踏み込んだ内容の脚本と作品になっていることが、クィア・パルム賞を受賞されたことになっていると思うんですが、このテーマについては、お二人はかなり最初の段階から形を変えないまま、この企画をもんで映画化されたということになるのでしょうか?それとも色々話し合いで脚本をつくったというお話をカンヌの記者会見でされていましたが、そこのテーマについては紆余曲折があって最終的な形になったんでしょうか。
我认为这部作品在探讨儿童的性别认同方面非常深入,因此获得了奎尔·帕姆奖。关于这个主题,您们两位是从最初的阶段开始就没有改变形式,直接将这个计划拍成电影呢?还是在戛纳的记者招待会上提到的,您们通过讨论最终完成了剧本,经历了一些曲折才得到最终的形式呢?
坂元まず私からお話しますと、どんなお話でもどんなテーマでもそうなんですが、まずは取材、勉強、自分自身のこれまでの経験、それを踏まえながらとにかく自分の中にある“まずこうだろう”を捨てて、まず知ること、自分自身を疑うこと、それを考えながら取材・勉強を続けてきました。ある段階で監督含め監修の方に入っていただき、多くの指摘をいただきながら修正していきました。その具体的な過程に関しては監督の方が詳しいかと思うんですが、ただ自分たちが分かった気にならない、それはいつもそうなんですが、自分たちは何も知らないんだということを、常にふまえながら勉強していったという感じですね。そして、脚本に修正をいれ、大きく変えていきました。
首先,让我来说一下,不管是什么样的故事,什么样的主题,首先要进行采访,学习,结合自己以往的经验,放下自己内心的“首先应该这样”的想法,先去了解事实,怀疑自己,同时继续进行采访和学习。在某个阶段,导演和监修人员参与进来,给予了许多指导意见,我们根据这些意见进行了修改。关于具体的过程,我认为导演会更详细,但我们始终保持着不自以为是的态度,我们一直在学习的过程中意识到自己什么都不知道。然后,我们对剧本进行了修正,并进行了大幅度的改变
監督 监督そうですね。プロットをいただいた段階で、これはちゃんと勉強しないとまずいなと思って。プロデューサーと相談しながら、協力していただける団体の方たちに連絡を取って、最終的には、LGBTQの子供たちの支援をしている団体の方に、本を読んでいただいたり、演出上どういう風な注意点があるかということをお伺いしながら、描写については現場にインティマシー・コーディネーターの方にも入っていただいて撮影をするという様な形をとりました。
嗯,是的。在收到剧情之后,我意识到如果不好好学习这个问题就不妙了。我与制片人商量后,联系了一些愿意合作的团体,最终请了支持LGBTQ儿童的组织的人来阅读书籍,并询问了他们在导演方面有哪些注意事项,同时请了现场的亲密协调员参与拍摄
もう少し踏み込んでお話した方がいいですか?
需要再深入讨论一下吗?
僕もなかなかどこまで踏み込んだ描写をするのか、彼らがどういう、要するに自認をしているのかというあたりが、演出する上でポイントになるなと思ったので。団体の方たちと話していた時に、あの年齢の子たちが、例えば自分がゲイであるとか、トランスジェンダーであるという自認、もしくは他認をするというような認識をするということは、まだ早い段階の子供たちだ、ということで、そういう特定の描写をむしろ避けた方がいいのではないかというアドバイスをいただいて、極力というか、そういう描写を脚本から少しカットした、ということはあります。
我觉得在表演中,关键是要考虑到他们对自己的认同以及他们愿意展示多深入的描写。当我与团队交流时,他们建议说对于那些年纪较小的孩子来说,例如他们自己是同性恋或者是跨性别者,或者是对他人的认同,这样的认知可能还为时过早。因此,他们建议尽量避免特定的描写,我也在剧本中稍微删减了这些内容
そのうえでーー、これはもう映画を観ていただいたうえでの話になると思うんですけれど、、、その名付けようのない、自分の中に芽生えた、得体のしれないもの、あの子たちにとっては。それを彼らは「怪物」と名付けてしまう、もしくは周りの抑圧によってそう呼ばされてしまう、そのことを描きたい。僕が考えたのは、そのように自分の中に芽生えてしまった、自分でも理解できない自分の感情とか存在を、「怪物」だと思ってしまうという感情とか行為というのは、色んな所で色んな状況に置かれた子供たちの中で起きているだろうなと思っていて。多分さきほど坂元さんが「孤独な人」といった人達だと僕も思っています。その子たちを、孤独な状況に追いやってしまっている私たちっていうものを、要するに彼らから見れば私たちの方が「怪物」であるという、この私たちが彼らに見返されるというスタンスを、どういう風に映画の中に描いていくかということまでやるべきだということを、その相談させていただいた団体の方と話し合ったうえで僕が学んだことでした。一番学んだのはそこでした。そこを見失わないようにしようと思いました。この辺で大丈夫ですか?
在那之前——我认为这是在您观看电影后的谈话——那种无法命名的、在自己内心中萌发的、难以捉摸的东西,对于那些孩子们来说。他们将其称为“怪物”,或者是被周围的压抑所迫使称之为“怪物”,我想要描绘的就是这一点。我想到的是,在自己内心中萌发的、自己也无法理解的情感或存在,被认为是“怪物”的感情或行为,在许多不同的地方和情况下发生在孩子们身上。也许正如坂元先生所说的“孤独的人”,我也这样认为。我们将这些孩子们推向孤独的境地,从他们的角度来看,我们才是“怪物”,这种立场是我们应该在电影中描绘出来的,这是我在与咨询团体讨论后学到的。我最大的收获就是这一点。我希望不要失去这一点。这样可以吗?
監督 监督すみません、もう一点追加を。一部でその子供たちが抱えた葛藤をネタバレだから言わないでくれと、言っているというようなことがささやかれたり、発言が飛び交ったりしているようなことを耳にしているんですけれども、観た方の感想で、なるべく先入観なく見た方がいいっていうのは間違いないと思うんですね。そういう感想をいくつも目にしましたけれども。決して、彼らが重ねた葛藤をネタとして扱ったつもりはありません。あの、構成上、おそらくむしろ観た方が自分が当事者としてあの子供たちと向き合うためには、これも坂元さんの脚本の技術だと思いますけれども、できるだけ振り回された方が、見終わったときに自分がどこに着地するのかということが最初に分からないほうが、いいのではないかなという風に思っておりますので、そこは誤解のないようにという風に、僕自身は宣伝のスタッフにも伝えております。ごめんなさい、余計な話かもしれませんが以上です。
对不起,我有一个小小的补充。我听说有人在暗中议论着不要透露那些孩子们所面临的困扰,因为那会泄露剧情,也听到了一些言论飞扬的声音。但是,根据观众的感受来看,我认为最好是不要带有先入为主的观念去看。我看到了很多这样的感受。绝对不是要把他们所经历的困扰当作话题来对待。在剧情构思上,也许更多是为了让观众在面对这些孩子时,能够更好地与他们共鸣。这也是坂元先生剧本的技巧所在。我认为,被剧情牵引着,不知道自己最终会走向何方,这样的体验可能更好。所以,请不要误解,我已经向宣传团队传达了这一点。对不起,可能是多余的话,就说到这里吧
質問者 提问者坂元さんに伺いたいんですけども、先ほど、今回の作品を通して監督をするのは自分には無理だというようなことを感じたということをおしゃっていましたけれども、今回自分が書いた脚本がこういう形で映像化、作品になったのを観て、自分の想像以上のものができたのかとか、どういうようなことを感じたのかというところを教えていただけますでしょうか。
我想向坂元先生请教一下,刚才他提到了他觉得自己无法担任这部作品的导演,我想知道他对我这次写的剧本以这种形式被拍成电影、成为作品后的感受,是否超出了他的想象,以及他有什么样的感受。能请您告诉我吗?
坂元まず、主演する二人の子供たちを観ているうちに、自分の子供時代のことをどんどん、どんどん思い出しました。自分の名前も忘れて顔も忘れていたはずの友人の顔が、その時急に思い出すなどして、それはもう新鮮な驚きでした。 首先,当我看着两个主演的孩子们时,我不断地回忆起自己的童年。我甚至突然想起了曾经忘记了名字和面孔的朋友,这真是令人惊讶的新鲜感 映画全体としては、本当に本づくりの段階から監督はじめ皆さんに引っ張っていただいて、多くの知己をいただきながら書きあがったものが、編集の段階でもまたよりどんどん変わっていき、というか良くなっていき、映画が成長していく、作りながら、私が書いた設計図にしかすぎない脚本が、どんどん人々が息づいていく、作品になっていくその様子に驚きましたね。一人の観客として出会えたので、それが何よりかなと思っています。
整部电影来说,从真正开始制作的阶段起,导演和大家一起努力,得到了许多知己的帮助,最终完成了剧本。在剪辑的过程中,电影不断地变化,变得越来越好,不断成长。在创作的过程中,我写的剧本只是一张设计图,但它逐渐被人们赋予了生命,变成了一个作品,这让我感到非常惊讶。能够以一个观众的身份与之相遇,这对我来说是最重要的
質問者 提问者実質、今回が映画の脚本としては2本目という風におっしゃっていましたけども、それがこれだけ世界的に大きな賞をもらって、このことがご自身の今後に影響を与えたりするようなことがあると思われますか?
实际上,您曾经说过这是您的第二部电影剧本,但是这部电影却获得了如此重要的国际奖项,您认为这会对您的未来产生什么影响吗?
坂元もう少し早く映画を始めていれば変わったのかもしれないですけど、私もう結構なベテランでカスカスなんですね。絞っても何もでない状態なので、まあ日々いろんなことを学び周りの方に助けていただきながら、書いてるんですが、正直自分がこれから何を書けるのか全く見えてはおりません。振り返った時に『怪物』が自分をもうひとつ成長させてくれたものだったなって10年後に、もしこんなこと言いながらバリバリ書いていたとしたら、この時だったなと思うのかもしれませんが、今はもうカスカスです。(笑)
如果电影能早点开始,也许会有所不同,但我已经是个老手了,有点老态龙钟的。就算再努力也一无所获,所以我每天在学习各种事情的同时,也在向周围的人寻求帮助,写作。但说实话,我完全看不到自己接下来能写什么。十年后回首,我可能会觉得《怪物》让我再次成长了一些,如果我在这个时候说着这样的话,努力地写作着,也许会觉得那就是现在吧。但现在我已经有点老态龙钟了。(笑)
質問者 提问者あともう一つだけ確認で。今内容に関してカスカスだということだと思うんですけど、例えばこれから書くもので映画になるのかドラマになるのか、それとも他のものになりうるのか、そこら辺については何かありますか。
还有最后一个问题要确认一下。我觉得现在关于内容方面已经很清楚了,但是比如说接下来要写的东西会变成电影还是电视剧,或者可能会变成其他的东西,对于这方面有什么想法吗?
坂元当面、映画を書くことは決まっています。ドラマは決まっていません。
现在我已经决定要写电影剧本了。至于电视剧,还没有确定
質問者 提问者先ほどの質問と重なることがあると思うんですが、これまでたくさんのお仕事をされてこられて、トレンディドラマもご自身を鍛えてくれたとおっしゃっておられて。そのあとも様々な社会的テーマと言われるようなところにも次々と取り組んでこられて、作風の幅を広げてこられたという印象を持っているんですけども、この『怪物』はご自身にとってこれまでの書かれた作品の中での位置付けと言いますか、これまでの取り組みの中から『怪物』のプロットに繋がるものがあったのか、そういったことをお伺いしたいです。
我觉得这个问题与之前的问题有些重叠,您之前已经做了很多工作,也说过流行剧锻炼了您自己。之后,您也接连着涉足了各种被称为社会主题的领域,拓宽了自己的创作风格,这是我对您的印象。那么,《怪物》在您之前的作品中扮演着什么样的角色呢?在您之前的探索中,是否有与《怪物》情节相关的元素?我想请教您这些问题
坂元2010年に「Mother」というドラマをつくりまして、脚本を書きまして、2011年に「それでも、生きてゆく」というドラマの脚本を書きました。その時からずっと、先ほどもお話しましたが、抱えていた問題が自分の中にずっとあって、それがここでこんなお話をすることが相応しいのかどうか分からないのですが、加害者というのをどのように描けばいいのか、それが私にとって12年間の長い長い課題というか、自分が考えていきたいテーマだったんですね。先ほどもちょっと言いましたが、加害者がどのようにすれば被害者の存在に気づくことができるか。私たちは被害ということに対して自分自身よく考えることがあるんですが、自分自身の加害という行為に関して考えることは難しい、気づくことは難しい。それをどうすればいいんだろうかということは、私の長年のテーマだったんですが、先ほどのクラクションの話もそうなんですが、『怪物』で辿ったのは加害者が被害者の存在に気づいていく、その道のりを自分なりに今現在書ける最も適したもの、現状書けるものがコレだったという。そういうことを、“社会的”という話も出たんですが、それにまつわることをずっと考えてきたということなんですよね。ですから、これで一つ自分なりの道筋というものになっているといいなと思うんですが、それが、答えが出るかは分からないのですが、現状コレです。
2010年我制作了一部名为《Mother》的电视剧,并担任编剧,2011年我又写了《即使如此,依然活着》的剧本。从那时起,一直以来,我一直有一个问题困扰着我,这也是我在这里谈论的内容是否合适的问题。我不知道如何刻画加害者,这是我长达12年的一个长期课题,也是我想要思考的主题。刚才我也提到过,加害者如何意识到受害者的存在。对于受害我们常常会好好思考,但对于自己的加害行为却很难思考,很难意识到。我一直在思考如何解决这个问题,就像刚才提到的汽车喇叭的故事一样,《怪物》所经历的就是加害者意识到受害者的存在,这是我目前能够写出最适合的、能够表达现状的故事。关于这个问题,我一直在思考与之相关的社会问题。因此,我希望这能成为我自己的一条思路,但我不知道是否能找到答案,目前只能是这样
質問者 提问者ありがとうございます。関連して監督にもお伺いしたいのですが、是枝監督はこれまで坂元さんの作品を観ていて、ご自身の関心とやはり同じものがあって同じ時代を生きていて、そういったこともあって、もしご自身が脚本お願いするなら坂元さんにと前々から言われていたと。今の“社会性”といった、坂元さんがずっと取り組まれてきた、そのことに関しては監督としては今回の作品を含めても、テーマといったところと、今の坂元さんの発言に関して監督からひと言頂ければと思うんですが。
非常感谢。我想询问一下导演相关的事情,是枝导演之前看过坂元先生的作品,他对坂元先生的作品非常感兴趣,觉得自己和坂元先生有着相同的关注点,生活在同一个时代,因此一直对坂元先生说,如果要找编剧的话就找坂元先生。关于现在的"社会性",坂元先生一直在努力探索的这个主题,导演希望能在这次的作品中包含进去,并且希望能从导演那里听到一句话,关于坂元先生现在的言论
監督 监督難しいですね。世代的には僕の方がちょっと上なんですけれども、僕も初めて書いた脚本はディレクターズカンパニーに持って行っているんですよ。僕は89年だったか90年だったか。相米慎二に憧れて。出発点から結構似てるんですよね。90年代、僕はフジテレビの視聴率1%未満の深夜ドキュメンタリーをやりながら、坂元さんのドラマを見る、心の余裕のない20代〜30代を過ごしたんですけれども。先ほどの「Mother」や「それでも、生きてゆく」―「それでも、生きてゆく」は僕の中では圧倒的な打ちのめされ方をしたドラマなんですけれど、自分が関心を持っているモチーフをこんな形で連続ドラマで、しかもラブストーリーで真摯に取り組んで、ドラマを通して何ができるのかを模索している、作り手がいる。本当に、演者と演出と脚本が信じられないくらい高いレベルで成立しているなと。そこから目が離せなくなったっていうのが、正直なところで。“社会派”と言われると坂元さんも「ん?」と思うと思うし、僕も“社会派”っていわれるくくり方であまりピンとこないっていうのが正直なところなんです。モチーフとして選んでいることと、その先で作り手が何を考えて何を描こうとしているのかと、結果的にどんなものになったのかというのは、必ずしもイコールでつながらないもので。特にドラマでも映画でもそうですが、集団でつくってるし、作り手が描こうと思っていないものが描かれちゃったりするので、あまりそれを決めたくないなという気持ちはあります。ただ、同じ時代に生きて同じ空気を吸ってきた。でも吐き方が違ってきた。吐き方は違っていた脚本家と監督が、今回は息を合わせてつくったという感じです。
嗯,确实挺难的。虽然从年龄上来说,我比你大一点,但我也是第一次写剧本时拿给导演公司看的。我记得是89年还是90年。我当时非常崇拜相米慎二。从起点来看,我们有些相似。在90年代,我一边做着富士电视台收视率不到1%的深夜纪录片,一边看着坂元先生的剧集,度过了一段没有心灵寄托的20多岁到30多岁。刚才提到的《Mother》和《即使如此,也要活下去》——《即使如此,也要活下去》在我心中是一部令人震撼的剧集,我在连续剧中以这样的形式,而且还是一部爱情故事,真诚地探索着自己感兴趣的主题,试图通过剧集找到自己能做些什么,真的,演员、导演和编剧的水平达到了令人难以置信的高度。从那时起,我就无法将目光从剧集上移开,这是我真实的感受。如果说坂元先生被称为“社会派”,我想他也会有些疑惑,而我对于被称为“社会派”也不太能理解,这是我真实的感受。选择作为主题的事情,以及制作人在此基础上考虑了什么,想要描绘什么,最终成为了什么样的作品,这些并不一定是相等的。特别是在剧集或电影中,因为是集体创作,所以有时会出现制作人没有想要表达的东西被描绘出来的情况,所以我不太想去确定这一点。但是,我们生活在同一个时代,呼吸着同样的空气。只是吐出的方式不同了。这次,编剧和导演以一种协调的方式合作创作
質問者 提问者ちょっと軽い質問してもいいですか。すみません。 可以问个简单的问题吗?对不起 せっかくカンヌに行かれたので、坂元さんにはレッドカーペットを歩いた時とか、現地で過ごした感想を聞きたいのと、是枝監督には、授賞式後、役所広司さんと2ショットで写真を撮られたりされていましたが、現地で経験したことなど聞ければというのもあり。さらに、1つちょっと気になっていたのが、レッドカーペットでかかっていた曲が『菊次郎の夏』の「Summer」だったのが凄く気になっていて、もし現地で間違えちゃったんだと言われたとかあったら、と気になっていたんですけど…とりあえず、そのカンヌの思い出話、楽しかった思い出話などを聞けたらなと思います。
既然你去了戛纳,我很想听听坂元先生走红毯时的感受,以及在当地的体验。还有,我听说是枝导演在颁奖典礼后和役所广司先生合影了,我也想知道在当地的一些经历。另外,有一件事情我一直很在意,就是在红毯上播放的那首歌是《菊次郎的夏》的"Summer",这让我非常好奇。如果有人告诉你在当地搞错了的话,我也很想知道。总之,我希望能听到一些关于戛纳的回忆和有趣的故事
坂元楽しかった思い出ではないんですが、私3日間滞在していたんですが、お腹を壊してしまいまして、 虽然不是令人愉快的回忆,但我在那里逗留了三天,结果患上了肠胃不适 3日の内2日寝込んでおりました。ただ、ギャガのスタッフの方が優しく、クッキーとウエハースを持ってきてくださって、そのウエハースを食べたらとても美味しくて、カンヌに来て良かったなと思いました。多分、一生あれより美味しいお菓子を食べることはないような気がします。とっても美味しかったです。帰るときでしたね、治ったのは。
我在三天内有两天都病倒了。不过,幸好有个嘎嘎的工作人员非常友善,给我带来了饼干和威化饼,吃了那个威化饼后觉得非常好吃,觉得来干啊真是太好了。也许一辈子都不会再吃到比那个更好吃的零食了吧。真的是太好吃了。正好在回去的时候,我就好了
質問者 提问者じゃあ全然、南仏のお料理みたいなのは… 那么,完全就像南法的料理一样..
坂元料理は機内食は美味しくいただきました。でもほんとに、どんな料理を食べるよりどんな美味しいものを食べるより、スタッフが持ってきてくださったウエハースが最高でした。
我在飞机上享用了美味的机内餐。但是说实话,比起吃什么料理都更美味的是工作人员给我送来的华夫饼干,简直是太棒了
質問者 提问者公式上映のときは大丈夫だったのですか?
正式上映的时候一切都好吗?
坂元あの日は大丈夫でした。あの次の日の午前中に倒れてしまったんです。いい思い出です、これは。
那天没事。第二天上午我突然倒下了。这是个美好的回忆
質問者 提问者ありがとうございます。
非常感谢您
監督 监督レッドカーペットの音楽はですね、事前に何にしますかと聞かれました。それで坂本龍一さんの今回の『怪物』のテーマ曲をお願いします、という風に伝えました。かかったら久石譲さんだったんですよ。(苦笑)これはなんでだか分からない。何かを間違ったんだと思うんですけど。
在红地毯音乐的选择上,有人事先问我要播放什么。我告诉他们请播放坂本龙一先生这次的《怪物》主题曲。结果播放的却是久石让先生的曲子。(苦笑)我不知道为什么会这样。可能是我搞错了什么
質問者 提问者やっぱりそうですよね。絶対、坂本龍一さんの曲じゃないの?!と凄く思っていて。
果然是这样啊。肯定是坂本龙一先生的歌曲吧?!我真的非常这么认为
監督 监督当然そうだと思って歩き始めたんですけど、違いましたね。(苦笑)
当然我以为是这样,开始走了起来,但是结果却不一样呢。(苦笑)
上映終わって出てきてもまたかけてきたので、大好きな曲ではあるんですが・・・なぜあれがかかったのかは分かりません。授賞式でレッドカーペットを歩いていても、「タケシ!」と声をかけられましたんで。もしかすると、どっかで何かこう違っていろんなことが伝わってるかもしれないです。(苦笑)
电影放映结束后,我出来的时候又开始播放了,虽然是我非常喜欢的一首歌,但我不知道为什么会播放那首歌。在颁奖典礼上走红毯的时候,还有人喊着我的名字:“Takeishi!”也许在某个地方有些事情发生了变化,传达了各种不同的信息。(苦笑)
質問者 提问者そのあとの北野監督のレッドカーペットでも「Summer」が流れていたので・・・
在北野导演的红地毯之后,也播放了《夏天》这首歌曲,所以..
監督 监督そうですか。そっちでもしかすると『怪物』が流れたんじゃないかと思ってたんですけど。(笑)
是吗?我在那边也有点想着会不会有"怪物"出现呢。(笑)
質問者 提问者だから、日本の作品は全部久石譲なのかなと思っていたんですが。
所以,我一直以为所有的日本作品都是由久石让创作的
監督 监督だとすると、だいぶ雑ですよね。(笑)まあいい曲でしたけどね。いい曲だったんですけど、ちょっと 如果是这样的话,那就有点杂乱了呢。(笑)
嗯,虽然是一首不错的歌曲。虽然是一首好歌,但有点..
せめて坂本さんにして欲しかったな、というのがレッドカーペットを歩いた皆の共通の意見でしたね。
大家都有一个共同的意见,希望至少是坂本先生走上红毯
質問者 提问者やっぱそうですよね。凄い気になってました。
没错,是这样的呢。我一直很在意呢
監督 监督すみません。伝えておきます。役所さんとの舞台裏については、、、まず、受賞の瞬間に役所さんの名前が呼ばれたときに、僕と安藤サクラさんが一番叫んで歓声をあげていると思います。そのぐらい格好よくてというかですね、本当に嬉しかったです。役所さんがあの場所で評価をされるということが。
不好意思。我会转达的。关于与役所先生的幕后事情,首先,在颁奖的那一刻,当役所先生的名字被宣布时,我和安藤樱小姐应该是最大声地欢呼了起来。这是因为役所先生真的很帅气,或者说,我们真的非常高兴。因为役所先生在那个场合得到了认可
裏で記念写真を撮って、役所さんも恥ずかしがり屋さんなので、あまり受賞した喜びをそんなに言葉にするということはなくてですね、裏で話したのは、今後の日本映画をどうしていくか、みたいな。日本映画界をどうよくしていくか、みたいなことをまた戻ったら話し合いましょうね、という実務的な話をしていました。ずっと応援していただいているので、僕らがやっている活動も含めて。そのお礼を伝えて、日本に戻ったらまた話しましょうっていう、そういう話です。
在内部拍摄纪念照片时,由于役所先生是个害羞的人,所以并没有过多地用言辞表达获奖的喜悦。我们在内部讨论的是关于未来日本电影的发展方向之类的话题。我们将来可以再次讨论如何改善日本电影界之类的实际问题,因为您一直以来都给予了我们很多支持,包括我们所从事的活动。这是一种表达感谢之意,并表示在回到日本后再次交流的谈话
質問者 提问者ありがとうございます。
非常感谢您
質問者 提问者坂元さんにお伺いしたいんですけど。今回、脚本賞を受賞して、今後の作品とかもより一層注目度が高まるかなと思うんですけど、その辺、プレッシャーや不安に感じることはありますか?
我想向坂元先生请教一下。这次获得了剧本奖,我觉得今后的作品会更受关注,您是否感到了更大的压力和不安呢?
坂元プレッシャーのない仕事をしたことがなくて。しかもあまり結果も出たことが、私はそんなにないものですから、いつも怒られながら、謝りながら仕事をしていて。それはビジネス的な面で、とても脆弱な脚本家なものですから。いつも細々と、細々というか、細々というと自虐が過ぎますが、皆さんにお仕事をいただきながらやっているものですから、それは今後もプロデューサー次第だと思うんですけど・・・これでそのプロデューサーたちがおめでとうって言ってくれたり、ご飯食べましょうって言ってくれたり・・・なんの質問でしたっけ?嬉しかったです。
我从来没有做过没有压力的工作。而且我也没有取得太多成果,所以我总是在被责备和道歉的同时工作。这在商业上,对于一个非常脆弱的剧作家来说是很常见的。我总是默默地,或者说是自嘲地做着这些工作,同时也在接受大家的委托。这将取决于未来的制片人,但是如果那些制片人能够对我说声祝贺,或者邀请我一起吃饭...我忘记了你的问题是什么?我很高兴
質問者 提问者世に出していく上で…
在我们走向世界的道路上..
坂元本当にもうカスカスなんです。ただただ、仕事をしましょうって言ってくださることが嬉しくて。それにホイホイついて行ってしまっている自分がお調子者で情けなくて。本当に書けない、ゴメンゴメン、と言いながら謝りながら、周りの方が大丈夫書けるよって言ってくださって、支えられながらやっているので。すみません、愚痴をこぼして。今後、自分が変わっていくとは現状は思えないです。ただただもう、脚本を書くのは地味に毎日朝、仕事机に座って、夜寝るまでずっとパソコンの前に座って。私の万歩計、日々12歩なんですね。トイレに3回行ったくらいなんですけど。大晦日、元旦以外はずっとそんなことをしていて。愚痴で申し訳ないですけれど、楽しい仕事でもないですし、ただただ真面目に文字を書くことでしか何も得られないものですから。こうやってとても華やかな場に立たせていただきましたが、公開が終わったらまた私締め切りに追われて、コツコツとパソコンの前に向かうしかないですので。とても楽しい気持ちにはなれないです。
真的是一团糟。只是听到你说要工作,我就感到很高兴。而且我自己也是个爱跟着去的人,真是可笑又可悲。我真的写不出来,对不起,对不起,一边道歉一边说着,周围的人却说没关系,你可以写得好,他们一直在支持我。对不起,我在发牢骚。我觉得我未来不会有什么改??
故事其实很平淡,三段式,前两段甚至有些无聊,最后才联想到很多细节。
依里虽然个子小小,但意外的很成熟。看到前面我还在脑补,他是一个反社会人格,长相人畜无害但确实这个班级的老大之类的,所以才被他爸称为怪物。
但看到后面才发现不是,很心疼他,应该是很早就觉醒了吧,所以才被叫怪物。明明是个小孩子,但却把在学校交不到朋友看淡,甚至面对在霸凌中想要“自保”不理他,在电车拥抱一时无法面对自己性取向的凑,显得那么包容,明明也很生气但凑发line叫他来他就来了。
全片让我记忆最深,回放无数次的两个场景就是,凑被妈妈抱住的时候,出现在洞口的依里,以及被爸爸威胁和凑先是说完我喜欢女孩子,但最后还是跑出来说刚是骗你的。
再说凑,前面还以为他真的在霸凌同学,没想到却是个温柔的孩子。不自觉喜欢上依里,因为对方要转学而述说不舍,无法直面自己的性取向,到挣扎,最后到坦然面对。
最后他们一起去往美丽新世界了吧。
是枝裕和的作品总能让观众感到惊艳,这是一部令人细思极恐、值得回味的好电影,每个人物都有一定的分量,都是十分重要的,不可或缺的一环。 影片分别从麦野凑的母亲、学校保利老师以及麦野凑与好朋友星川依里三组视角分别进行呈现和描述,他们都有一个固定的开头,一切都得从少女酒吧失火开始说起。安藤樱饰演麦野凑的母亲,虽然是单亲家庭,丈夫离世,但是她将自己全部的爱、全部的温柔都给了儿子,听闻儿子在学校遭到保利老师的欺负,母亲只身前往学校讨要说法,让欺负自己孩子的老师赔礼道歉,我想这就是一个母亲所作出的最应激的反应,但事实远不止我们想象那么简单。 正因为事情远不止想象那么简单,就有了电影中的第二个视角,永山瑛太饰演的保利老师,从起初麦野凑的母亲镜头揭示时,观众会认为他是一个虐待学生的坏老师。其实不然,有时亲眼所见并非真实,刚来学校没多久的他,是一个非常爱护自己学生,让学生不受欺凌的好老师,但是没成想,面对流言蜚语,面对舆论的压力,却被诬陷成坏老师,造成很多误会,学生不信任他,家长讨厌他,甚至连少女酒吧的女友都对他不认可,感受到了社会的残酷无情,也感受到了舆论的可怕。但是老师体现好的方面更多,片中出现这样的一个片段,在一个大雨天,他祈求得到麦野凑母亲的谅解,随后前往一处残骸寻找自己的学生麦野凑和星川依里,细节很打动人,原来老师对自己的学生非常负责,一下子这个人物就立住了。 电影从第三处视角,麦野凑与好朋友星川依里展开呈现,小编认为这部分是最精彩的,也是十分需要的。前面两处视角都是从成年人的视角出发,第三处是从两个孩子的视角出发,看到了整个事件的不同。 给我最大的感触,让小编最心疼的是星川依里,给我的第一印象,这孩子太懂事了,但是又非常可怜,和麦野凑一样是单亲家庭的孩子,但两个家庭又不相同,星川依里家里经常遭受父亲的虐待,有一处细节我记得十分清楚,孩子想自杀,多亏了好友麦野凑将他从浴缸中拉起来,背后满是被父亲打过的伤痕,从小经历这么大的痛苦,加上学校里,被班上的同学说是“猪脑子”,遭受无止境的欺凌与霸凌,麦野凑虽说是他在学校里交到的唯一一个朋友,但是在星川依里遭受同学欺负,麦野凑只能在一旁畏畏缩缩,看的心里全然不是滋味,感觉星川依里好可怜好无助。但是之后两个孩子去到了一个只有他们两个知道的秘密世界,才让我有了心灵上的慰藉,得到了些许安慰。结尾部分,他们俩打开了一扇窗,仿佛整个世界又为他们重生了,虽然这是是枝裕和为电影留下的冰山一角,但是说真的,是实打实的感动。 片中还有一个人物是非常重要的,这个人就是校长,戏份相对来说其实很少,面对自己的亲孙女被车轧死,自己不得已的内疚;为了保护学生、保护老师,面对家长使她不得不妥协;与麦野凑之间的对话,把心中的那份愧疚吹出来,学会释放自己,将悲痛化为力量,感触颇多。 总的来说,故事的衔接度是十分完整的,但是节奏的把控显得有些缓慢,不仅仅是整部电影拥有一个好的剧本,就像开头所说那样,每个人物都有一定的分量,都是十分重要的,不可或缺的一环。如果满分10分,我会给8.5分,值得深思、回味无穷的好作品。
本文涉及剧透,阅读前还请注意。
6.3一刷、6.7二刷、6.14导演座谈场三刷。每次观影都能注意到好多新细节,真的非常感人,沉浸在影片的情绪之中了。接下来还会再观影几次渐渐补全文章内容~(追记:6.20再次更新,添加访谈内容,浅浅讨论主题,部分剧情问题增补,四刷)(6.24补充导演关于.....【防止剧透请看后文】的处理的采访,五刷)
【6.27追记】六刷导演teach-in场次:昨晚是枝裕和导演的teach-in场次完全和上次teach-in不同,整场都是细节满满的提问与解答(看来大家都是有备而来哈哈哈,确实跟上映初期完全不一样)简直收获巨大,关于这场内容整理一下添加到本文最后~【关于结局/配乐/幕后/校长相关问题等等】
悄咪咪多提一句,是枝导演本人也真的好温柔啊,遥想当年看《奇迹》的时候,真的被他的温柔之心、笔下孩子们的纯真愿景温暖感动。
另外关于两个主角(麦野湊、星川依里)在文章的不断增补中渐渐修改为以名字称呼(湊、依里),不过还有部分没有统一起来的地方(麦野、星川),还请见谅。在文章中提到的重生/转世/转生等说法都是一个意思(生まれ変わる),在不同语境中采取了更流畅的翻译,还请理解。
【7.11追记】补充7.6七刷是枝导演teach-in场次相关内容(因为这次隔了一段时间整理,所以内容可能不是很全,还请谅解)另外进行全文的细节确认及调整,尝试为了易读性重新排版,并增加目录、增补部分内容(比如尝试解读两个人究竟渴望转生吗)。
目录
1.前言
2.三幕完整时间线整理(适当增补小说内容)
3.七刷注意到的细节汇总(随时补充)
4.解答剧情相关问题
①二人的关系 ②关于结局 ③作文写了什么 ④是不是校长把孙女撞倒的 ⑤是不是依里放的火 ⑥为什么要剪头发 ⑦怪物究竟指什么 ⑧(7.11新增)关于两人究竟渴望转生吗?
5.导演teach-in场次(笔者去了三场)
第一场(池袋):一些幕后分享
第二场(新宿):
①结局二人活下去了吗 ②二人的服装色调 ③坂本龙一的音乐 ④导演最喜欢的场景 ⑤关于导演拍摄儿童视角电影 ⑥关于三幕转换 ⑦关于美青(坐在湊旁边的女生) ⑧一些有趣幕后 ⑨关于海报的回眸(重要) ⑩校长相关问题:为什么绊倒小女孩、为什么探望丈夫时提到零食小偷、如何理解她向湊说的话、导演是否认为校长为了学校“牺牲”保利是正确的吗
第三场(六本木):
①依里之后的转学问题解决了吗 ②为什么湊要说谎 ③导演最喜欢的两个角色/关于这次拍摄和以往的不同 ④导演最喜欢的角色 ⑤关于导演自己
6.结语
前言
非常喜欢是枝裕和导演,观看他的作品时总感觉被缓缓注入一种细腻的、难以名状的叙事能量,在影片最后爆发开来。安藤樱和两个小演员的演技也真的太好了,尤其是安藤樱的情绪处理,特别是在一两处一眼看似演技略下线的时候的情绪处理,参考小说的心理活动描写才知道是完全精准的,真的佩服。另外结局给人带来的情感高光,特别在坂本龙一先生的音乐下更加触动心弦。
影片中很很多隐晦的、很“轻”的、也许是刻意回避的表达,其实在它的原著小说中都相对直接、明确地写了下来。关于“原著小说”,本作品并不是改编自小说,而是官方的“电影小说化”。这类小说基本上以详实描述电影内容为目的,小说作者也并非是导演与编剧(不过也有导演亲自写的)。目前小说已读完,发现比影片还多了好多好多细节(以及部分情节),还有心理描写非常多,看来这本原著小说并不只是以电影为底本,还深入参照了剧本的内容。【7.11追记】经确认《怪物》的小说基本属于全篇详实描述电影情节,和剧本关联并不太大,电影里没有拍摄的(或删去的)情节小说也没有放入。倒是小说有着些许独有的情节、细节与心理描写。推测这些描写可能参考了导演、编剧的意见,或者有其它参考材料。(也或者是小说作者自己的理解?但可能性略低)
比如说描写小男主麦野湊的性格是那种不愿参加欺凌,也不愿看到其它人被欺凌的孩子(与后面两人之间学校发生的事情相呼应,能做到的、想去做的因为周围环境影响没能做到的)
还有母亲和儿子同龄人的母亲们一起聊天发现开始进入青春期的孩子都不愿意和单独和母亲一起出门,渐渐疏远(湊在一年前四年级的时候提出要自己睡);以及湊的班级构成,和一些背景描写(所以说一开始剪头发时母亲立马想到了会不会是被蒲田欺凌了);另外这天回家发现湊在洗澡母亲就觉得很不可思议,因为湊是不催促不会自己主动去洗澡的孩子;湊出门很久都不说「行ってきます」(我出门啦)等等。
不过目前本文主要展开讨论两个小主角相关的内容、还有校园欺凌、单亲家庭、家庭暴力、被冤枉的老师(关于日本教员的相关社会问题)等很多角度都可以展开,待之后有时间慢慢补充。不过这篇文章最多只是笔者作为普通观众的一些感想,不能算得上影评。还请大家多多讨论、指正,非常感谢~
另外把当时一刷后的最初感受贴出来给自己留个纪念~
好哭了。导演也许有意突破以前作品的一贯风格,第二幕开始便开始有趣起来。那些隐喻、意象,朦胧的、缓缓流动的情绪结局又回归是枝裕和式的核心,无尽触动。虽然有时是枝式的细腻表达可能太“轻”与隐晦了,但令人感触颇深。(有几个镜头真的要看哭)
三幕完整时间线(三刷更新)
三幕的时间线并不是同一进度进行的,比如我们第一幕看到的跳车就是第三幕中后期的事情,某种程度上增加了一种悬疑感,使用涌现式揭秘方式为观众缓缓注于“叙事能量”,在结局达到一个情感高光,当然笔者并非在写影评,只是作为一个普通观众做出整理分享,一定会有很多视野局限性,还请大家在评论区多多指正。
6.27追记:六刷之后才突然发现三幕之中时间线其实并不是完全的线性的,导演也许是为了观赏性和情节的起承转合特别安排了一些插叙等场景(不过观众多半感觉不出来,一般都会感觉到是一整个正向的线性叙事,但如果注意到的话可能会觉得时间线混乱)如果说是bug的话其实也不算,可以理解成为了观众更好理解影片表达的内容并带动观众情绪,时间线有做小许打乱(比如说近况报告的场景)
6.27再度追记:其实与其说是插叙不如说是修改了剧本的时间线,所以影片自身时间线基本还是线性且自洽的(除一两处场景)接下来会完整阅读剧本后再确认。
7.11追记:经确认,理论上影片本身只用了一处插叙(被关洗手间事件)、其它事件都是线性的叙事。另外关于“校长绊倒小女孩”“保利老师家访”“湊去找依里”都把原剧本的时间线提前了。关于近况报告的场景,理论上是按照剧本拍摄并剪辑,但反而小说把时间线理解错了(此处还需观察角色两次近况报告的服装,笔者之后会确认)
所以可以得出以下结论:
1.电影和原剧本相比,有时间线的调整
2.小说基于电影改编,电影里没有拍摄的(或删去的)情节小说也没有放入,倒是小说有着些许独有的情节、细节与心理描写。推测这些描写可能参考了导演编剧的意见,或者有其它参考材料。
3.无关剧本与小说,电影自身的时间线是自洽的就没有问题。
4.不过观影中产生的疑问也确实可以通过确认剧本获得解答(比如美青带保利看猫的时间线问题)
第一幕(母亲视角)
车站前大楼发生火灾,湊到阳台和母亲一起远眺,初次提及猪脑
→交代母亲在洗衣店的工作
→母亲回家发现湊莫名剪了头发
→又一天母亲回家发现湊少了一只运动鞋(小说补充:但是湊看上去比平时更加明朗。第三幕我们知道这天湊和依里放学在一起玩,并把一只鞋借给依里)
→母亲让湊给父亲做近况报告(借用这个机会想了解最近湊的异常状况,比如剪头发、丢鞋)
→第二天起床发现湊的水杯里是脏水和石子(第三幕我们知道这是为了浇灭猫的尸体)
→(小说补充)母亲半夜发现湊在房间里做手工很晚都没睡,眼中闪烁着光芒,对应第三幕装饰废弃电车
→母亲回家发现湊不在家中,脏衣篮中有湊沾满颜料的体操服(对应两人打架事件,此处为小说补充),后来打电话得知湊的方向,去铁路废线旧地找湊
→车上对话,发现湊耳朵包扎,讲了一些关于和父亲的约束的话,湊跳车
→去医院做CT,湊对过程、结果都非常不安,之后情绪激动把饮料丢掉地上(小说补充:湊从来不是乱暴的孩子,甚至也看不下去乱暴的场面,这样失控是第一次)坦白被保利老师说是猪脑(PS这幕长镜头真的调度出彩,安藤樱展现神演技,教授配乐出来真的要哭了)
→母亲第一次去学校,校长先接待,三个老师后来接待表示校长最近孙女刚去世,不适合再接待了,学校说会调查,母亲回家
→母亲第二次去学校,想了解调查结果,但没得到一切细节。保利老师按照排练好的内容道歉,被几个人拒绝式的生硬地鞠躬谢罪,只得回家
→在超市发现校长故意绊倒小朋友
→母亲出去买油,出门前发现湊要捡橡皮,回来后发现湊还是保持一个动作(小说补充:母亲后来在网上查到如果受到了巨大的情感冲击与动摇会发生这种情况)
→母亲第三次去学校,看见保利老师和湊同班同学走向学校后院,面谈时发火,突然一个老师进来,母亲意识到保利可能想说什么遂走出面谈室,发现保利,被保利告知湊在欺负一个叫星川依里的同学,还可能有着凶器
→(小说补充背景:湊说去文具店买下东西很快就回来,(第三幕我们知道是湊去找依里被其父亲拒之门外),湊回到家心情非常失落,在楼上有乱丢东西的声音),接着电影场景母亲上楼发现湊在自己房间门前挂着“不要进来”的牌子,进去发现湊靠坐在床前一动不动,在湊的包里发现点火机(第三幕我们知道是烧猫的尸体时从依里手中抢来)
→母亲去依里家,发现了湊丢的一只鞋,依里给湊写慰问信的时候(这几天母亲以感冒为由让湊在家里休息)发现依里会把字左右写反,身上有火伤,疑似受到霸凌
→母亲第四次去学校请依里作证,依里说谎(说保利老师对湊实施暴力)
→母亲第五次去学校,参加致歉的说明会,保利老师辞职
→母亲第六次去学校,接到通知说是湊从楼梯上摔下来,后来以为湊跳楼时候听到吹奏声,后来找到湊说是去洗手间了
→台风来的前日晚上母亲去湊的房间被喊住,湊说了父亲的梦中传话(いつもありがとう、大好きだよ/一直以来很感谢,最喜欢(你)了),提及转生时自己会成为什么
→台风当日母亲醒来发现家里没人,听到外面保利老师大喊,第一幕结束。
第二幕(保利老师视角)
发生火灾,保利发现几个学生也在现场让他们赶紧回家
→和女友回到家中,提到有颠覆病的鱼(暗示了保利老师之后的经历)
→去学校,在校门前上坡处发现依里摔倒(小说补充保利老师看到了疑似推倒依里的几个学生,其中有湊)
→作文课读自己写过的作文,无人反应
→和女性年轻教师上楼聊天的时候听到教师里杂乱的声音,跑去教室发现湊暴走,想要控制他时不小心碰到了湊的鼻子,湊鼻血滴到地上
→在操场做組体操(叠罗汉),此时我们能看到湊在最下面一排,上面踩着他的是依里(细节:这个和剪头发发生在同一天,也是影片开始的场景,母亲递给湊忘带的水杯,说組体操加油)(更正:这可能就是随机一天,因为一般不止练习一天)
→去教室发现两人打架(电影里没有这个场景,为了理顺时间线补充一下,即摘核桃(更正:这是前一天)/两人打架/跳车/做CT发生在同一天)
→被几个老师堵在资料室,说湊的母亲来学校抗议了,保利老师想要解释误会被拒绝(关于单亲家庭,如果把责任归到孩子身上会点燃家长怒火,闹到教育委员会非常麻烦等等)
→关于事件的调查,校长表示事实是什么样不重要
→排练道歉场景,校长刻意把她和孙女的照片朝向家长座位
→保利晚上在教员室和年轻女教师聊天,得知实际开车撞倒校长孙女的可能是校长本人
→在教室发现依里没穿鞋,上靴(室内用鞋子)被藏起来了
→去依里家家访,又在此处听到了“猪脑”非常震惊(之前被湊母亲表示自己说过这话)
贴一下这里台词(印象中),太难受了
「ダメダメ。あれはね、化け物ですよ。頭の中に、人間じゃなくて、豚の脳が入ってるの。だがらね、私は、あれを人間に戻してやろうと思ってる。」
→发现依里被锁在洗手间隔间内,看见了湊,认为他又在欺负依里(这里时间线可以理解为插叙)
→被湊同班女生带到学校后院看猫的尸体,说湊之前玩猫(这里台词很重要不是说猫【と】遊んでいる(和猫玩)而是猫【で】遊んでいる(用猫玩/玩猫))【6.27补充:这里可能会觉得有时间线混乱,理解成这里的猫和之前湊和依里烧的不是一只就可以了(按照剧本时间线)】
→依里作证时候说谎,保利心里崩溃,出去拦着那个女生请她帮忙作证湊杀猫,被另一个老师按在墙上
→给五年级学生全员做问卷调查,很多学生撒谎选“是”,也有很多把“否”改成“是”的学生
→参加说明会道歉,进场前向校长说自己真的什么都没做,校长也表示同意,保利质疑为何当初要那样做,校长说保利老师可以保护学校(小说补充:保利道歉前沉默的时间其实是在想究竟是要自己把真实情况说出来,还是按照排练时的稿子发表)
→保利打包东西回家时在校门口遇到了校长,质问她是不是其实才是撞到孙女的人,未得到回应
→晚上和女友回家时被采访偷拍,女友走了(细节:保利手上拿着最近刚给女友买的东西,知道女友是刻意没拿,可能再也见不到了)
→家门口被人放猪脑
→(小说补充:有很多想不明白的事情,但最不明白的是湊和依里为什么要说谎)遂去学校找两人,遇到湊追到楼上,问湊自己什么也没对他做吧,得到湊肯定的回应本来心里的一个结已经打开,但是湊逃跑的时候摔倒,听到其他学生说是湊是被自己推倒的(注意隐隐约约听到的台词:保利先生に突き落とされた)遂崩溃,感觉怎么都洗不清了,决定跳楼
→跳楼时听到吹奏声音,放弃跳楼(小说补充:为什么听到笛声就放弃跳楼是因为想到了姐姐的往事)
→给鱼换水的时候水洒到了地上,弄湿了作文,拿起想要批改,改了几个错字时发现发现依里的作文最上面是(むぎのみなとほしかわより),拿出湊的作文发现也是这样,明白了两人关系很好,眼中看到的欺凌不是真相,可能是受到另一批学生的威压
→去湊家道歉,和母亲一起开车找湊
→在路上被拦下说有泥石流,母亲和保利跑进铁路废线找湊,母亲一直重复着“转生究竟是什么的话语”(对应第一幕最后台风前夜晚上湊提到转生的问题),发现电车侧翻,把车窗打开后没看见两人(小说特别强调了母亲确认了很多遍没看到人)第二幕结束
第三幕(麦野湊视角/孩子视角)
校长去监狱探望丈夫,后来在湖边远眺时发现依里掉的点火机,同时发生火灾
→湊醒来眼眶湿润,看到直播发生了火灾(小说补充:是那几个经常欺负依里的学生直播的,湊并不想看直播,但是如果不看会被找麻烦)
→回家路上看到依里,刻意保持了距离
→校门口和依里聊天,依里被几个学生推倒
→两人在储藏室放箱子,依里摸湊的头发,依里说本来以为今年也没有朋友了(小说补充:依里是升入前五年级转到这个班的)湊说朋友虽然是朋友在大家面前不要找我说话(友達は友達だけど、みんなの前で話かけないで),依里表示好,但神情忧伤(小朋友演技很好)
→湊回到家后心中感到不安,于是剪头发
→黑板擦欺凌事件,湊(某种程度上为了吸引欺负依里人的注意,也有心里不安的因素)暴走,此处给了依里一个伤心镜头(这镜头好催泪),暗示只有依里知道湊为什么要这样做
→放学路上遇到依里发现他没穿鞋分享了一只鞋给他,并谈论自贩机的话题
→第一次去废线电车,从电车出去后看到了有着路障的铁桥(小说中经常提及想要有一天想要渡过那座桥)
→依里在学校后院带湊看死去的猫,提到转生话题
→把猫带到废弃电车旁准备烧掉,湊怕引起像加州那样的火灾拿水杯灌水浇灭(对应第一幕母亲在湊的水杯里发现泥水、石子)
→依里被关卫生间隔间事件,湊某种程度上怕别人取笑他们关系不正常,没能帮依里(7.11追记:这里笔者进过再三确认,确定影片是把这个事件的时间线从原剧本提前了。其实本来按照原剧本的话,这里成为插叙很奇怪,因为不能把未发生的事件作为插叙放到前面,而应该是第二幕把已发生的事情作为插叙放到后面比较合理,但这样又和剧本矛盾。然后笔者七刷时候突然发现湊在这里穿的衣服和废旧电车上聊天时穿的衣服一样,所以确认电影是把剧本的关隔间事件(6月22日)调整到和电车聊天事件(5.19-6.4之间的某一天)的同一天了)
→在废旧电车车顶聊天,提及保利老师,依里和湊的父亲的话题
→在神社道路上玩跳格子(?)游戏,提到宇宙大挤压(big crunch)
→在面向諏訪湖的游具继续大挤压的话题,提到时间倒流的尽头是转世
这里台词太美了,贴一下(凭印象)
「宇宙って膨張し続けてるんだよ。今も風船みたいにどんどん膨らんでいるんだよ」
「最終的には、宇宙がいっぱいいっぱいまで膨らんだら、パーンって割れるんだよ」
「宇宙って壊れるの」
「時間が戻るんだよ。逆回転して、時計も人間も、電車も猫も、後ろ向きに進んで、牛丼は牛に戻って、うんこはお尻に入って、人間は猿になって、恐竜が復活して、また宇宙ができる前に戻るんだよ。」
「生まれ変わるんだね。」
「そうだね。」
6.20补充:这里最后湊说的是「準備しようか」(开始准备吧),直接看上去说的是之后准备装饰电车的东西,但是不是也是指准备“宇宙大挤压”的到来呢?
→二人装饰电车,玩怪物游戏,互相写有两个人名字的藏头作文
→(可能是全片最美空镜)两个人去摘核桃,目送经过的电车,回来时湊不小心把依里撞倒
→湊给依里冷敷的时候,依里突然说了要搬家的事情,表示不用太担心自己也没关系,湊很吃惊开玩笑似得说是被父亲抛弃了吧,依里说是,湊很害怕说自己是故意搞笑才那样说的,依里表示没关系,自己没生气。这里非常关键,印象中台词大概是这样「だがらさ、もうあんまり色々心配しなくていいよ」「へえ、お父さんに捨てられるんだ」「そうだね」「違うよ、わざと面白く言ったんだよ」「怒ってないよ」接着湊很激动地抱住依里说「いなくなったらいやだよ」(你要是不在了,我会很讨厌的)(和母亲说湊经常哭着醒来,因为做了喜欢的人消失的梦相呼应),依里也抱着湊喊他的名字,随后湊发现自己有了生理反应,紧张的把依里推开,依里安慰他说没关系他有时也会这样,湊怀着害羞难以直面依里的心情又把依里推倒在地慌张离开(我的天这里真的让人屏住呼吸,感觉内心深处很是震撼。导演在这里没有使用任何配乐,也去除了背景的一切杂音,只有夏日的虫鸣)
→两人在教室打架,湊也是受到周围压力被迫这样做,压在依里身上的时候是一种非常悲伤、无奈又有一丝绝望的神情(小朋友演技好好啊)
→湊独自一人到电车发现依里不在,直到晚上湊突然面向手机出现笑容(小说里可以知道是依里回复了湊的Line说会来找他)
→看见依里时母亲突然出现,和母亲一起回家,跟母亲道歉说自己成为不了父亲那样(ごめん。僕ね、お父さんみたいにはなれない),母亲没听清说了很多和父亲的约束,此时湊看到了依里打来的电话,往窗外看没能看到人,又听到母亲的一番话、心理慌乱后跳车(为什么不直接接电话?小说里描述是湊怕和依里之间“不寻常”的关系暴露,也和之后害怕做CT相关联)
→(小说补充:湊以买文具为由,骑车去依里家找他,此时依里已经陆陆续续不去学校了,湊邀请他去废旧电车也没有结果,联系不到他)骑车到了依里家被拒之门外。依里病治好了,变“普通”了,在外婆家有喜欢的女生了。后来又打开门说是在说谎(ごめん、嘘!),接着又被他父亲进行家暴。
→湊被保利老师追到楼顶,逃走时候摔倒,后一个人走到阳台上道歉,被校长发现。说了关键的台词,讲虽然自己也不太明白,但自己有了喜欢的人,因为不能给别人说所以说谎(怕一切暴露),校长便说说不出口的事情,就吹出来,于是两人开始吹奏。
这里真的两个演员情绪处理太好了,看到这好难受。附一下这里台词(印象中)
「僕はさ、あまりわからないんだけど。好きな子がいるの。人に言えないから嘘ついてる。幸せになれないって、バレるから」
「じゃあね、誰にも言えないことはね。ふーって」
→台风来的当天天刚蒙蒙亮时去找依里(这里电影中和吹奏的声音是重合的,但据小说其实是隔了一段时间了,湊这段时间完全无法联系到依里),发现依里被父亲惩罚泡在浴缸中,湊把他抱出来。这个地方也有关键台词:「ビッグランチが来るよ」(宇宙大挤压要来了)
→两人冒着大雨跑向废旧电车,听到了风雨后说道(关键台词) 「出発するのかな」「出発の音だ」(出发了吗?是出发的声音呀),两人跑向驾驶席模仿发车的场面
最后场景(非现实场景/心像风景)
湊和依里从侧翻后的电车朝向下方的车窗跳到旁边的水渠,沿着水渠跑出到林中,此处给了一个光芒四散的镜头,然后便是两个人的对话「生まれ変わったかな」「そういうのはないと思うよ」「ないか」「ないよ。元のままだよ」「そっか、よかった」(我们转生了吗/没有那种事吧/没有吗/没呢,和以往一样啊/是吗,太好啦)随后两人欢声笑语奔向那个栅栏意料之外消失的铁桥。全片结束。
据评论区友邻分享,关于最后场景是非现实场景是导演自己在讲座的解释,详细可以看看评论区。(7.11追记:另外关于心像风景后文也会解释)
这里多一嘴,此处配乐用的坂本教授的aqua(最早收录于1999年的专辑BTTB),现在一听到就不由自主想到最后场景的画面,有种难以言喻的感动。(6.27追记,导演teach-in场次导演也提到了教授的音乐,特别讲到了aqua,可以到文章最后详细查看~)
七刷注意到的细节汇总(随时补充)
0.提个题外话,本片背景设定在諏訪,諏訪市内有个巨大的圆形湖泊:諏訪湖,这里也是新海诚《你的名字》的糸守湖的背景设定地,笔者虽然没直接去过,但有幸在高速路过,这是在服务区和路上拍的照片~
1.第一幕母亲让湊给父亲做近况报告,小说中说母亲疑似听到了「友達できた」所以暂时放下心来,影片最后我们知道其实湊说的是「なんで生まれたの」(6.27追记,六刷后发现这个情节电影、小说、剧本描述完全不一样,说不定出现了时间线问题,亦或者是非同一场景的对照,之后仔细分析一下再更新)(7.11追记:关于近况报告的场景,据笔者七刷推测这里可以理解成是两次不同的近况报告的场景,理论上影片是按照剧本拍摄并剪辑,反而小说把时间线理解错了。但究竟是哪一方出现了时间线问题还需要最后确认。这就需观察角色两次近况报告的服装是否一致了,笔者之后还会再去确认)
2.母亲和玩的“越过白线”游戏贯穿了第一幕情节。
3.保利老师一直误解是湊在欺负依里,所以依里在教室里找不到自己上靴(室内用鞋子)场景时,保利老师先去翻的湊的桌子。
4.非常简短几个镜头带过的,湊和依里两人在电车顶上时,湊问依里要不要和保利老师谈一谈欺凌问题,保利老师是个很好的人,依里回答“只会被说不像男生罢了(这里之前笔者听错了,是だけだ不是だけど,在此修正)”,湊问;“讨厌这样吗?”依里:“毕竟是猪脑” 湊:“不是,你爸爸弄错了。”这里牵扯到星川父亲的家暴,还有保利老师经常提到“男らしい”这个词 (比如两人打架后在医务室的场景,保利老师说男らしく握手しよう。依里这时表情有一些变化),可能也间接导致了依里撒谎的理由(但并不是说恨保利老师故意去的,而是在那个特定场景自然而然的那样说/做了,学生们的集体撒谎也是可能害怕被欺凌导致的随大流的表现)(主要理由应该是依里想保护湊)
另外湊的撒谎主要体现在怕和依里的事情暴露,无法大家被接受(最后和校长的对话:人に言えないから嘘ついてる。幸せになれないって、バレるから。)
4.保利老师和母亲驱车去找两人时,母亲拿着湊的作文说“(湊)经常早上哭着醒来,梦到喜欢的人要是不在了会很伤心地哭,是个很温柔的孩子。”(好きな人がいなくいなる夢を見ると、いつも泣いてるんだよ。優しい子なの。)这里也许和梦见父亲,后来的电车「いなくなったら嫌だよ」情节相呼应。
全片给到两次湊哭着醒来的镜头:第一次是刚开始火灾湊打开手机看直播,这个时候不知是做了什么梦哭了呢。第二次是台风前夜,湊也是哭着醒来,说梦到了父亲,父亲给母亲传话:「いつもありがとう、大好きだよ」(一直以来谢谢了,最喜欢(你)了)。但此处其实可能并非是梦到了父亲,台风前夜湊已经没有见到依里很久了,也许是梦到了依里的被迫离去,结合到后来两人到了废旧电车上说一直提到“出发”,这里的「いつもありがとう、大好きだよ」(一直以来谢谢了,最喜欢(你)了)说不定是给母亲的临别赠言。(哭死)(6.20补充据坂元的剧本,湊在出门之前在母亲门前告了别,不过电影中没有这个场景)
5.写有着二人名字的信,两人都是把另一个人的名字放在前面(这里咋突然有种call me by your name的感觉我的天,哭了)。依里的信比较明显(保利老师改作文),但湊的信全片只给了两个镜头,一个是第二幕母亲和保利老师去找他们时给了一个很快的镜头,这个时候看不到最上面一排,然后是第三幕在电车里写作文时又给了一个镜头,这个可以清楚看到湊写的是「ほしかわよりむぎのみなと」
6.母亲和保利老师去找二人时,看到侧翻的电车,尝试擦车窗但持续很久的擦不干净(这个镜头至少持续了二十秒),可能也是暗示了一些事情难以挽回(6.27追记,导演teach-in场次导演也提到了这个镜头,可以到文章最后详细查看~)
7.(新增)保利老师刚出场时被女朋友吐槽兴趣很无聊,找书中印错的字给出版社寄信。之后保利老师开完道歉会后在家看关于自己报道的时候,也圈出了一个错字(只给了一个镜头,不太明显,算是一个比较冷的笑点?)
8.(新增)为什么母亲让湊给父亲做近况报告时湊问父亲去世时候盖上土了吗并首次提及转生?其实是因为这一天正好是湊和依里去烧猫的那一天,那时候湊问道:“脸上也要盖土吗?”依里说:“反正死了。”之前在学校后院的时候也有以下对话:“如果死了就不是猫了吗?” “死了的话,什么都是这样哦。一直这样下去的话,可能不能转生了。”遂两人去烧猫。综上,所以湊在近况报告的时候提到了这方面的问题。
9.(新增)一个小bug。跳车场景第一幕先是湊说抱歉,母亲问耳朵疼吗,湊才说出“不能成为父亲那样”的话。第三幕的话先是母亲问耳朵疼吗,湊才说:“抱歉,我呢,成不了父亲那样”(连续说的)当然这里目测导演也是知道的,也许是为了叙述的流畅做了下小变动。
除以上外真的还有很多很多,真的仔细看的话细节太丰富了,这些细节也许潜移默化给观众积聚了情感与共鸣吧。
接下来尝试解答剧情相关问题。首先是最重要的两个。
1.二人的关系(关联问题:为什么会拿到酷儿棕榈奖?存在LGBTQ元素吗?)
【追记】这一段写在上映初期笔者一刷过后,大家都对影片只有朦胧了解的时期(其实看评论区笔者和uu们的讨论,能看出来随着时间推移理解逐渐加深),其实不是什么复杂的问题了。但是这段还是保留下来,并在之后对关联内容进行许多补充,供参考~
结论上来说:是超出普通友情的关系,但也不同于成人之间的恋人关系。
与单纯讲恋情不同(同性也好异性也好)(影片也确实没体现这方面),影片更加隐晦地表达了少年对青春期的性启蒙以及对自我认知探索的一个过程,其中充满了一些自我怀疑之类的复杂情绪。还有面对被欺凌/看到朋友被欺凌时想去做但未能做到的意难平之事等等。
我们来看一下导演接受采访时候的回答。「LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話と捉えた。誰の心の中にでも芽生えるのではないか」(这不是一部专门针对LGBTQ的作品,而是描写少年内心矛盾的故事。在谁的心中都有可能发生吧。)
但只是普通的友情吗?无论是反复提到的“转生”,还是影片中的诸多情节都在暗示两人超出友情的相互之间复杂的情绪与关系(尤其是以为湊的认知过程为主)。如果说给鞋等场面完全可以是两人友谊的体现,那么以下场景基本就很明示了(超出普通友谊的复杂情感)。
比如,第一幕在车中没听清楚儿子说了什么的母亲疑似听到了儿子提到了父亲,便说了“和父亲约定好了哦,直到湊结婚,成立家庭之前我都会加油的!在哪都有的普通的家庭就好,湊在组成家庭也就是最宝贵的东西之前,我会一直......”这里没说完湊就跳车了。第三幕我们明白了那时湊说的是“对不起。我成不了父亲那样。”「ごめん。僕ね、お父さんみたいにはなれない」
二刷后这里补充一下可能的跳车动机。小说是这样写的:(麦野湊)没能告诉母亲连那个普通都做不到。之后也没有勇气去告诉母亲。观察影片中第三幕,湊跳车前收到了依里的来电,所以他往后方看了看依里在不在,此时又不能接电话(会暴露和依里的关系),但想到依里独自一人,心里便又有着苦闷,加之母亲刚说的一番话,湊处于一个混乱状态,于是跳车。然后讲到为什么湊害怕做CT/知道CT结果,可能是害怕自己是猪脑(此时他的认知中,猪脑=喜欢同性)被发现的事实,心中的一切都暴露了。
之后湊去依里家找他,依里说的是大概是“我的病治好了,让你担心,已经没事了,成为普通人了。”(原句是普通になったんだよ(笔者画外音:真的说话风格一看就是依里啊尤其影片里很是体现,平时讲话方式非常可爱,这里就很伤感)可能翻译成中文这里的普通有着一层中文的“正常?”的意思了)
此时依里父亲也说他在外婆家有喜欢的人了(接着依里说了一个女生的名字),然后把湊拒之门外。最后依里跑出门外大喊“ごめん、嘘!”(对不起!刚刚是说谎)。此处也更具体说明了依里父亲平时星川进行家暴(依里父亲随后大喊お仕置きだ!/惩罚!),知道依里喜欢的是男生,说他是猪脑、怪物、不是人(保利老师家访时候提及「ダメダメ。あれはね、化け物ですよ。頭の中に、人間じゃなくて、豚の脳が入ってるの。だがらね、私は、あれを人間に戻してやろうと思ってる。」/不行不行,那家伙是个怪物哦。头中不是人,而是放了猪脑。所以,我想把他重新变回人。PS翻译这里简直气死)并决定搬家不让两人见面等等。
最后电车中依里说要搬走了,两人靠近后那那一幕一开始没确定是什么(虽然大概有些猜测),看了小说便确认了确实是指生理反应,所以湊当时突然反应非常强烈怀着害羞、疑惑、难以直面对方的情绪把依里推开。依里其实也明白,于是安慰说“没关系,我有时候也会这样。”
6.20追记
之前笔者思考这个问题的时候还是有一些难以琢磨,不能很好用文字表达的感觉。不过目前看了电影三次加上原著小说,以及各种采访,感触更深,重新确认了自己的观点,之前说到是超出普通友谊的范畴,但其实现在看来完全也可以说是爱情也没问题(即使是懵懂的)。
我们来看看两个小演员在戛纳接受采访时的回答
二人の男の子が互いを好きになることについて
・黒川想矢さん:男の子が好きとか、好きになることができるとか、そういうのは多分違って、例えばりんごが好きだったら、「あ、そうなんだ」となる。「男の子が好き」っていうことは、僕はまだ聞いたことはないのですが、実際湊を演じてみて依里のことを本当に好きになれたし、どんな状況でもりんごが好きなように男の子も好きになれるんじゃないでしょうか。
・柊木陽太さん:男の子が好き、という言葉がない。男の子が好きでもおかしくないし、自然なことだと捉えることできたらいいかなと思います。
・是枝監督:難しい質問に答えてくれてありがとうございました。
这里笔者翻译一下
关于两个男孩子互相喜欢。
黑川想矢(饰 麦野湊):不是说喜欢男孩子、或者可以喜欢男孩子,比如说喜欢苹果的话,“啊,是这样啊。”虽然我还没有听说过“喜欢男孩子”的事情,但实际上试着演了湊之后真的喜欢上了依里,在任何情况下都会像喜欢苹果一样能够(自然)喜欢男孩子吧。
柊木陽太(饰 星川依里):没有“喜欢男孩子”这种说法。即使喜欢男生也不是奇怪的,当作是自然的事情就好啦。(啊真是小天使)
是枝导演:谢谢两位回答如此复杂的问题。
说的真好啊,非常感动。
另外关于之前笔者为什么感觉有些难以琢磨以至于写得比较含糊,也确实是因为导演的用意。据报道来看导演弱化了很多坂元剧本中比较“直接”的情节(比如坐在湊左边的女同学美青喜欢看BL漫画,也提到“出柜”相关台词等等)。
之前提到的导演接受采访时候的回答也是,虽然他说“不是一部专门针对LGBTQ的作品”,但还说了:“如果看到《怪物》后感动并意识到了(相关社会问题)的话,希望大家能表现出让现在因疲惫而无法行动的性少数群体和其他社会中的少数群体的权利和生活得到一步改善的态度。这样的话,至少可以增加活下去的生命(的勇气),即使一个也好。”
这有一篇文章写得很好大家感兴趣的话可以看一看「映画『怪物』はなぜ性的マイノリティを描きながら不可視化したのか。映画製作の構造的な問題を考える」(电影《怪物》为什么一边描绘性少数群体一边不可视化呢?思考电影制作的结构性问题)这里引用部分内容。
《怪物》成功地描写了社会将什么样的人作为“普通”和“正常”,以及因其规范的内在化语言而产生的疼痛和不快感而被折磨的性少数儿童(和大人)的经验。
对于不存在转世,说“还和以前一样”之前的湊,依里表示“太好了”的对话还是基于坂元的剧本(但是导演最终的呈现还是开放的)。这是坂元通过“想写下那些不能喜欢自己、不能被别人喜欢的人们的故事”的心愿而献给少年们的“就这样就好了”的祝福(“接受真实的自己”就很好了的祝福),很多观众都为少年们奔跑的样子而流泪,和坂元一起祝福他们的生存,体会了是枝导演相信的“意识到”吧。
这里再谈一谈为什么是枝导演要弱化处理这方面的自己的理解(这一段纯属笔者随意发散,可以无视)。
(仅为个人有限的观察,可能也并非如此)据平时生活有限的观察,一方面在日本BL文化很盛行,漫画也好、小说也好、剧也好,无论是电车的广告、摆在书店的书也好,这方面是完全不避讳的,或者说其实大受爱好者们的欢迎(也许是因为属于文化作品),但同时又是和现实生活很割裂的,比如主创提到的对性少数群体儿童的欺凌之类的。日本一般人对LGBTQ的接受程度有多高呢?也许大部分人漠不关心,但放到“正式场合”去看的话(比如说法律意义上)接受度可以说是有限的(仅是个人理解)
以上来看,也许是枝导演没有太“直给”有这方面的原因(当然“直给”本来也不是是枝导演的风格),如同新海诚导演《铃芽之旅》原案采用双女主但被“还没到时候”否决。如果太“直给”,商业角度的大众接受度来看(这里指日本本土市场)也是需要考量的。
当然,是枝导演的一个心愿是为了让观众“意识到”什么的话,能渐渐做出一点点的改善面向未来在当下也许是最优解了(前几天看新闻好像日本的LGBTQ法案好像也在推进中)
(6.24追记)其实导演接受访谈时也提到了这方面,笔者翻译一下贴上来吧
是枝导演:我也一直在思考应该描绘他们(LGBTQ儿童)到何种程度,他们如何认同自我是一个关键点。在与这些团体(LGBTQ儿童支援团体)的人们交谈时,我意识到,那些年龄的孩子们,例如自认为是同性恋或者跨性别者,或者认识到是被他人认定(成这些群体)的,这样的认知可能对于那些处于早期阶段的孩子们来说还为时过早。因此我得到的建议是,不如避免那种特定的描绘比较好。所以我从剧本中削减了一些这样的描绘。
在此基础上—这可能需要观看过电影之后才能理解—那种无法命名的,突然在他们心中冒出来的,不可名状的感觉,对那些孩子们来说,他们将其命名为“怪物”,或者由于周围的压迫而被叫做“怪物”,我想描绘这个。
我想到的是,那种在自己内心深处萌发出来,自己也无法理解的感情或存在,将其认为是“怪物”的情感或行为,在许多不同的地方,处于不同情况的孩子们身上都可能发生。我认为,坂元先生之前所说的“孤独的人”可能就是这样的人。那些让孩子们陷入孤独境地的人,从他们的角度看,我们是“怪物”,我们应该以何种立场反视它们呢,我从与那些团体进行的讨论中学到了如何在电影里去描写这一点。我学到的最重要的就是这一点,并决定要牢记这一点。
不好意思,我想再补充一点。我听说有人在暗示和讨论,因为会剧透所以不要谈论那些孩子们所承受的矛盾,确实在观众的反馈中来看,我认为尽可能没有先入之见(这里指有关于主角身份元素的讨论,或者说给这部电影标上某种标签)的方式观看是没错的。我绝对没有打算将他们所面临的矛盾当做故事的噱头(所以弱化描写这一部分)。所以在结构上,我觉得观众在面对那些孩子们的时候,可能会更多地感受到自己是当事人,这也是坂元先生的剧本技巧。我认为观众越是被牵引,看完之后自己便会明白自己会在哪里落地(是很重要的),所以在一开始就不明白(两个少年之间所面临的心理矛盾/身份特征,说白了就是指同性元素)最好。所以我向宣传团队传达了希望避免大家误解这个的意愿。
2.结局到底如何/HE?BE?(七刷更新)
(6.27追记:在昨日的导演teach-in场次导演确认两个主角活下去了,表示最后的光亮是一种祝福。导演希望他们的未来是光明的、没有阻碍的。基本盖戳HE)不过以下上映初期写的内容还是保留,供参考~
开放式结局。笔者直接分两种情况说明吧。大家可以遵循观影后的内心答案~顺道提一嘴,笔者更愿意相信是HE结局(哭了要)这里也把友邻的一些观点整理上来(不过详细还请看评论区)
(见评论区友邻补充,来自讲座)目前是枝裕和导演持着一种乐观、正向的观点;坂元裕二编剧、原著小说(目测基于剧本)则更偏向悲观一些。(其实好多电影也是这样,即使是主创,创作者们的观点也不一定一致)
HE:
最后场景有着这样的台词「生まれ変わったのかな」「そういうのはないと思うよ、元のままだよ」「そっか。よかった」(我们转生了吗?没呢,还是和原来一样呀。是吗?太好了。)
这里为什么说像原来一样的话太好了呢,仔细一想,如果没转生的话在现在这个世界(现世)两人还能互相喜欢啊(转世可能变成大家眼中所谓的“普通”的人了)。
虽然已经确定最后的场景是非现实场景/心像风景。但非现实场景并非暗示是去向另一个世界,或者说这里就是死后天国的场景、而是一种二人之间内心深处最真挚的情感的自发流露,通过这个场景暗示着两人会依旧和现在一样对互相有着真挚情感(元のままだ),携手一起走向那充满光明的未来(导演最后弥漫光茫镜头的用意)。莫名消失的栅栏也是一种对未来没有阻碍的期待与暗示。(笔者7.11回来多说一嘴,没想到当时我的想法和导演一致啊,好感动)
(7.1追记)从朦朦胧胧渴望宇宙大挤压与重生的到来,到经历了两人当作“宇宙大挤压”的台风后,沐浴着阳光表示“一切还和原来一样真的太好了啊”然后奔向远方也是对真实的自己的接受与和解。
(7.11)关于心像风景的一些补充:
心象风景(しんしょうふうけい)指的是在内心构想、浮现或铭刻的风景,而非现实中的风景。这种风景有时可能是现实中不存在的。可能是内心深处无意识的具象化,或者比具象更多的是抽象的表达。(翻译自日语wiki)
跟当初从评论区友邻得知导演在讲座表示最后场景是非现实场景时,我当时理解就是那最后的场景便是两个人自然而然的内心最深处的情感的真实流露,是内心深处最渴望的事物的自发涌现。后来又得知导演表示是“心像风景”,但看来这里笔者理解对啦。真的太感人了。
BE:
6.27追记:在昨日的导演teach-in场次导演确认两个主角活下去了,不过此部分内容依旧保留,也可以作为开放性结局思考~
已经确定最后的场景是非现实场景/心像风景(可以见评论区友邻补充)。最后弥漫着白色光芒的镜头,也许是走马灯似的离世前的回忆,或者说最后的场景就是天国(这里多一嘴,参考评论区友友的意见,两人离开了直接结果上是BE,但真的留在这个世界未来会更好吗需要画个问号,反而这样离去也可以说是HE,哭)。
保利老师、母亲去找二人和结局之间有着叙事空白。母亲和保利来到废线旧地,发现电车侧翻,费力把车窗打开后没看见两人(小说特别强调了母亲确认了很多遍没看到人)。
不过因为已经确定是非现实场景,叙事空白和异常场景反而没那么重要了,比如台风后两人最后跑向的铁桥,本应在铁桥前的栏杆完全消失了。
那桥的意象可以理解成什么?在日本文化中,桥常被视为连接现世与另一个世界(日本的神道教和佛教)所以这里的桥下会不会指三途の川(現世とあの世を隔てる境目にあるとされる川/分隔阴间与阳世的河)(尤其小说描述成“桥在等着二人”)
参考小说最后的描写:二人は未知の世界へ向かっていた。(二人正朝着未知的世界而去)
是枝裕和导演读坂元的剧本时也是想到了《银河铁道之夜》,“银河铁道”是书中主角探索生命、死亡、友情、牺牲、时间和空间等抽象概念的工具,结局很悲伤,不知道是不是暗示了本片的结局。
另外有提到可能两人zs的想法,确实也有一定道理。(6.27追记,此说法可以终结了。6.26导演teach-in场次导演表示两个人活下去了)在台风那天湊去找依里时虽然影片中和吹奏的声音是连续的,但其实湊已经很久没能联系上依里了(小说中说依里不去学校了,Line打电话、发信息均联系不上),特意选台风这天去找他,莫名想到了之前说的“宇宙大挤压、时光倒流回到原点”“转生”相关的内容,在两人登上电车后不惧风雨,说:“出发了”。(6.20补充,提到出发之前湊把依里从浴室拖出来时还说了“大挤压来了哦”,之前两次首次谈到宇宙大挤压,还说到了“开始准备吧”)这里的“出发”是指什么呢?越想越难过。不过这里和HE说法中的两人表示“元のままだよ”(还和原来一样)太好了相矛盾,这里还需要再多观察细节,等四刷再补充补充。
6.20追记,关于这里的矛盾是枝导演也在采访中提到了,他也没给出特定答案(但是整体是正向的,比如BE这一段最初写的如果现在这个世界没有变化,那留下来并非是一个好的结果)
是枝导演:“在两个少年中反复出现的是转世的事情—特别是湊,最后说了“为什么要生我”这样的话—因为不能好好确定(自己心中的疑问),所以想转世成为别的东西。我认为这是两个人玩的“怪物”游戏非常象征性的表现。与此同时,这个故事,在世界被断绝,充满不宽容的时候,世界会重生吗?我想这是这些少年们在问的吧。正因为如此,我才期待着这种形式的结局,我想在某个地方相信自己会不会因为这件事而重生,无论是读剧本还是看两个人的演出,都感觉到了非常悲伤而殷切的东西。虽然没有讨论过两人是否真的相信世界的成立和重生,但对于湊和依里来说,(重生)也许是一种救赎,也想到了最终两人没有选择重生,走向未来。我想如果能成为这样的故事就好了。”
以上是早期采访,之后导演表示了这里用充满光线的镜头也是一种祝福、暗示了没有阻碍的光明的未来(HE)
和导演不同,坂元编剧确实相对持悲观想法?关于坂元剧本中有这样的描述
保利老师和母亲去找湊时请求母亲告诉湊不用死也可以的,像现在这样就好/台风来的那天早晨,湊在母亲的门前告别
但是最终的影片没有呈现,也许导演还是希望保持开放结局吧。
这里再贴一下日本影评网站给出的分析
依里是在无法接受真实的自己的环境中长大的,在学校写的关于“将来”的作文中加上了“品种改良”的标题。依里认为自己是品种改良后“应该重生”的坏种子。
湊也知道其实父亲去世是因不伦旅行中的事故死,经常问母亲“父亲转世了吗”。也就是说,湊希望父亲从让母亲悲伤的前世开始“重生”。
两人多次交换“转世”这个词,在台风的当日,在电车里闭门不出的时候,也是模糊地做好死的觉悟,相信转世。但是,在台风过后的早晨,两人从电车里爬出来,“还和现在一样”“太好了”传达的是“接受真实的自己”。
接下来是其它问题。还会慢慢更新,评论区也可以提问大家一起讨论~
3.两个小主角的作文内容。
两人的作文都写了双方的名字。
具体是这样:
之前湊妈妈去依里的时候发现他写的一些假名左右颠倒,是埋的一个最初的伏笔。
然后之后在电车上两人说到写作文的事情,保利老师能不能发现之类的。可以看到依里写这个作文是先横着写了两个人的名字(むぎのみなとほしかわより)再竖着写了文章的内容。湊于是也跟着这样写(ほしかわよりむぎのみなと),这里细节是两个人都把对方的名字写在前面。
之后保利老师不小心把水洒到地上,顺便看到了依里作文时(其实这个地方也能看到保利老师其实还是很关心学生的,即使辞职了还看学生作文)纠正?
真相被谣言掩盖
谎言引出真理
人之初也许可以性本恶
冷漠也是仁慈
恨就是爱
死亡带来重生--拨开泥土后再重新奔向阳光明媚的日子
ps:看了六本木首映礼,坂元裕二/是枝裕和/瑛太/安藤樱和两个小男孩的登台。
大家讲了戛纳趣事,坂元是在走红毯第二天拉肚子,导演是跟北野武合影--奇跡のツーショット,瑛太是因为记者/闪光灯太多而激动的会双手跟大家致谢结果看起来像宇宙人。
见证是枝裕和用尽全力把掮客背刺观众的给还回来多视角塑造的悬疑氛围质量远超预期,以紧凑的情节和谜题吸引观众,最后再落到对无人担责的成人社会的议论(全片最大怨种当属全程misunderstand和被misunderstand的Hiro sensei😢真的太冤了🆘
#76戛纳主竞赛# 未能为挚友最需要的时候挺身而出而追悔半生,亦或共同面对艰难人生甚至粉身碎骨,我坚定不移的选择后者
还得是是枝裕和啊,悬疑中见温情三重叙事线令人印象深刻,这个玩法虽然已经老套但依旧能拍出新意,三条线的代入感都很强,但有些故事弧感觉有些牵强…全程在思考为什么大家都不跑路,这样的学校还有什么可待的啊……两个小男孩都太漂亮太可爱了!
很遗憾,是枝裕和在成为一名悬念大师的道路上越走越远。同一段故事以不同视角重述,的确让电影更加“好看”,却也造就了一部但凡被剧透便再也不值得看的快消电影。我们不禁怀念起从前是枝裕和电影中作者与人物之间亲密又疏远的关系,怀有无尽的好奇,并发出真诚的关切,而这一切在《怪物》中仅剩下对热点议题的拼贴,以及演员在极端情境下完成的应激反应,以考察观众的同理心。一种制作规格升级后的再次迷茫。
和《亲密》有那么一点撞题,又很有是枝裕和之风,前期沉稳地叙述,揭示不同人物看到的表象和自身出发点带来的后果,积累到最后揭开真相,蓄积了情感,爆发巨大的能量。不过这个结构还是有待商榷。两个孩子缘何被推向边缘,进入自己的小世界,不为人言说又彼此心知肚明的情感,尽收眼底。成人始终只见其表象。暴风骤雨之际,也只有无畏无惧的孩子才可以抵达彼岸。
对我来说是一部足够打动我的片子,坐在我旁边的姑娘们一直流眼泪,说“这个片子好东亚啊”
从知道是枝裕和这次要拍的核心内容后,就在猜测他会用怎样激进的方式突破自我。直到看完全片,你才明白他还是那个他,在表达方式上甚至有些执拗的他。一个人对于一些人而言,永远都有可能是那个“怪物”,可这就不能拥有自我了吗?而真正能够和你感情交融的,正是那些你的“同类”。是枝裕和用细密的勾连,让你的对面不再是落空的座椅,是抚摸你发梢的指尖。安藤樱和黑川想矢的极佳表演让一切几近完美。
同性、家庭、校園暴力、後311創傷…看得出來很想拿獎。儘管他自有風格、穩定發揮又切題,但他最終是一則死板的命題作文。音樂啊,為阪本龍一淚目。
B+. 确实是绝不可以被剧透的电影。视角切换的三段式结构给人近乎悬疑片的快感,每处“闲笔”或反常都在后续的“反转”中得到验证,甚至变成情感上的重击;而这种叙事上的”骗术”和故事的核心也是一脉相承的:是枝裕和讲述的是谎言的伤害,而有时我们欺骗的不止别人,更是自己。(还是要感慨,我,尤其是我,怎么会这么晚才意识到“怪物”是什么?)2023.5.17 Debussy
影片分三段,各以安藤樱饰演的单身母亲、瑛太饰演的老师和男孩自己作为视角,讲一对男孩失踪始末,是枝裕和的叙事保持水准,让我始终好奇怪物究竟指代什么。我常用细雨来形容是枝裕和的短镜头,让他更善于编织绵密的情感,谁能想到他也拍了boy‘s love,德霍特《亲密》东亚姊妹篇(二者故事其实很不同)。但坂元裕二的编剧总是着迷于结构,情节一清二楚、一目了然,第三段依然没有逃脱出日本商业片的温情套路,单身家庭、校园霸凌等议题点到为止,不了了之。坂元裕二和是枝裕和显得并不调和。导演还是自己写剧本吧。2.5
#Cannes2023-6 是枝裕和和初次合作的编剧坂元裕二以三段式的结构讲述了一个带有单亲家庭、校园霸凌、师生关系等社会热门话题要素的故事,三次视角的转换却剥茧抽丝地呈现了“真相”的更多维度。少年之间至纯至善的情谊赋予了影片汹涌澎湃的情感内核。“怪物”究竟是没有共情力的成年人、无意识地党同伐异的同学,还是无法面对自我边缘身份的少年,这是影片让人回味无穷之处。
It's beautiful. 宇宙膨胀到最后,时间会倒流。我们,火车,猫猫都会回到一切的起点,人类会变成猿猴,恐龙会统治地球,一定要早早做好准备呀。敏感细腻的少年心事像清脆嫩绿的初夏的森林,不知不觉生长得葱葱郁郁。于暴风骤雨中勇敢地往前奔跑,秘密都随着管乐低沉的声音消散在宇宙,最后河流依旧,我们柳暗花明。是枝欲合展开故事的方式像片中的通往秘密基地的甬道,经过狭小而深邃的暗角,到达锈迹斑驳的旧车厢,一片充满想象的灵动的天地。在我作为孩子的依稀记忆中,我确信那是属于他们的华丽飞船,定会载他们到达想去的世界。
最值得关注的两个表演镜头:1. 安藤樱抓住儿子肩膀长长定定地注视着他等待他的回答;2. 钢琴曲的尾声中校长在雨中身体佝偻承受风雨的模样。每个人都在他处有自己的生活。【看安藤樱表演最感慨的是,想起第一次被她惊艳到的小偷家族里的样子,怪物中的安藤樱完美地呈现了全然不同的模样。看着怪物里的她,我甚至会怀疑是不是自己记错了,小偷家族的演员另有其人。给演员一点时间与空间,让她消失,让她REBORN 】
哭了
3.5,被彼此困住的是枝裕和与坂元裕二。一个崇尚把一切不好的都抹去、全员善人于是一切都是好事,一个崇尚把事情最坏的一面写出来、全员善人但都像怪物。水清无鱼和四处留情共存能不能繁荣不知道,他们俩的结合似乎没有,the story is just too sophisticated to be true. 还是坂本龙一的绝响更动人,音乐响起,boy's love在终结后永生。
学生和校长在教室里吹圆号,我在影院哭的好大声
日本版亲密with a happier ending,三个不同的视角有意思但没必要
3.5真的太喜欢了 所以这个光明的结尾是导演改了的吗😭😭😭所有人看似是怪物 所有人也都不是怪物 一会复盘呜呜呜…
#Cannes76 三个视角和他们的三个故事 层层剥开的真相和情感 只是我更希望他们是友情的救赎
文本技巧(坂元裕二式?)和表演控制上真的把这个故事的悬疑性和戏剧性拉满了,但相比于前两条线如此郑重其事声讨无人承担罪责的日本成人世界,即那个真正的国族“怪物”。由这两个小男孩共同建立的“真相”,则显得有些轻巧和虚假,失去了是枝裕和惯常对孩童忠实的跟随和捕捉,取而代之的是一种概念先行,不断为故事的可信性做补充的刻意感,乃至议题感。同样情感,在去年戛纳的《亲密》中以更现实主义的作法获得了确认。